【完結】ギックスの本棚/火の鳥(手塚治虫):(12) 太陽編 【GAMANGA BOOKS|小学館クリエイティブ発行】

AUTHOR :  田中 耕比古

火の鳥世界の”無限回廊”から抜け出すためには・・・

火の鳥 10 太陽編(上) (GAMANGA BOOKS) 火の鳥 11 太陽編(下) (GAMANGA BOOKS)

本シリーズでは、火の鳥を読み解いていきます。火の鳥の全体構成については、コチラをご参照ください。(尚、本稿で紹介するのは、小学館クリエイティブ発行の「GAMANGA BOOKS」の「火の鳥」です。)

この太陽編は、火の鳥シリーズの最後の一編であり、また、僕がリアルタイムで読んだ唯一の火の鳥です。小学生の頃に、父が購読していた「野性時代」という雑誌で連載されていました。小説がメインで、漫画は火の鳥太陽編だけだったと記憶しています。小説は、魔界医師メフィストとか、ロードス島戦記とかが掲載されていたのですが、漫画やゲームが全面的に禁止されていた僕にとって、「火の鳥 太陽編」は最高の娯楽だったんですよね。今回は、そんな思い出の作品について読み解いていきたいと思います。

あらすじ

こういうのは、僕がクドクドかくことでもないので、GAMANGA BOOKS版 火の鳥の裏表紙より引用します。

上巻:
663年。白村江の戦いで唐軍に捕えられた百済の兵士・ハリマは、顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられた。
不思議な老婆に助けられたハリマは、倭国=日本に渡り、仏教に追われた先住神の「狗族(くぞく)」という先住者たちと出会う。
その頃、ハリマは、奇妙な夢に悩まされていた。
夢の中でハリマは、21世紀の坂東スグルという青年だった。
古代政権と宗教の深遠を描く。

下巻:
663年。白村江の戦いで唐軍に捕えられた百済の兵士・ハリマは、顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられ、
倭国=日本に渡り、仏教に追われた先住神の「狗族(くぞく)」という先住者たちと出会う。
ハリマは、奇妙な夢に悩まされていた。
そこは、火の鳥を神と崇拝する宗教団体「光」が地上を支配する未来だった。
時空を超えて宗教と権力の問題を描く。
異色作の完結編。

ストーリーの特徴

未来と過去を行き来するストーリーが、火の鳥の全体構造ともリンクする特徴的な構造の一作です。最初のうちは、2つの物語がどのように交錯するのか全く分かりません。このあたりは、村上春樹さんの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と似ている感じがしますね。村上さんが真似たというより、天才の発想は類似する!ということなのかなと思ったりします。

さて、本作のメインテーマは、宗教戦争の皮を被った権力闘争です。

過去の世界においては、日本古来の土着の神々と大陸から渡ってきた仏教神の争いを背景に据えた、中大兄皇子(天智天皇)+息子の大友皇子=仏教陣営と、大海人皇子(土着の神と共同戦線を張りますが、最終的には太陽神を崇めることになります)の政争が描かれます。いわゆる壬申の乱ですね。

一方、未来の世界においては火の鳥を崇める”宗教(光)”によって、地下に追いやられた人々(シャドウ)が起こした戦争が描かれます。虐げられ、抑圧されたシャドウが「自らの開放を願って始めた反乱」という構図ですが、最終的には、シャドーの指導者(叔父)が、光の教祖:大友(甥)に成り替わるという結末を迎えます。言うまでもなく、大海人皇子と大友皇子の関係性を意識した構図ですね。

どれだけ時代が移り変わっても、同じ事を繰り返す、という人間の悲しい性を描いた「火の鳥の世界観」を、この一作品の中で完璧に表現している名作です。

他の章とも交差する

本作は、これまでの集大成として位置づけられる一作ですので、これまでにご紹介してきた各作品へのつながりを感じながら読むと、なかなか趣深いものがあります。

八百比丘尼とのつながり

下巻のp.115に異形編の「八百比丘尼」の話が出てきます。戦によって傷ついた土着の神々を、火の鳥(とは名乗りませんけれど)が「永遠の時の中で治療し続ける”八尾比丘尼”」の下へと連れて行く、というお流れです。鳳凰が連れて行くという事を考えても、やはり「蓬莱寺=鳳来寺」ということなのかもしれませんね。そして、八百比丘尼は、”時代の概念”から切り離されているということにも言及されます。

その女は自分のおかした罪を贖うために・・・ 無限の時を あらゆる世界の生きものを救うことに費やしています

火の鳥世界の複雑な絡まりを感じます。

光とシャドーの戦いは”2009年”

シャドーのリーダー”おやじさん”が、未来世界の主人公に当てたメッセージの中に、こんなセリフがあります。

そうだ、1999年だった 今から十年前のことだ

手塚治虫の頭の中に描かれた「未来の世界」に、僕たちは足を踏み入れているわけですね。感慨深い。

”生命編(2150年頃)”には、永遠教(エターナリズム)は跡形もない

また、この「未来」の次の時代の話として、生命編が描かれますが、そこでは「光」および「永遠教(エターナリズム)」の痕跡はありません。猿田の系譜に属するシャドーのリーダー”おやじさん”が勝ちえた権力も、200年弱の時が流れただけで押し流されてしまう程度のものだったわけですね。

こういった宗教が一時の隆盛を極めた後に廃れたら、退廃的な空気が蔓延し、「命の大切さ」を見失ってしまうのかもしれません。青居に代表される”倫理観”の薄い人々が生まれることもしょうがないのかなぁなどと、もの悲しさを感じてしまいます。

”鳳凰編(8世紀)”は、「天智天皇」の流れを汲む「桓武天皇」の御代

一方、壬申の乱の時代を描いた「過去」の次の時代のお話は、鳳凰編です。この時代は、桓武天皇の御代です。桓武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の流れを汲みます。桓武天皇の父であり先代の天皇である光仁天皇は、天智天皇の孫です。(つまり、桓武天皇は天智天皇の曾孫。)

過去の世界においても、たった100年ほどの時間で、壬申の乱で政権を取った天武天皇(大海人皇子)の系譜から、奪われた天智天皇(中大兄皇子)および弘文天皇(大友皇子)の系譜に、権力が戻ってしまったわけです。

人類の長い歴史の中では”ほんの一瞬”に過ぎない「一時代の権力」を死に物狂いで争うことに、一体どれほどの意味があるのだろうか、と感じずにはいられません。

先導者は、扇動者である

本作に限らず、過去の世界においても、未来の世界においても、「先導者」が存在します。本作の中の「先導者」をピックアップしてみましょう。

中大兄皇子=天智天皇は、大陸から渡来した仏教神を崇めることして、宗教によって人心を掌握しようとします。その死後、息子である大友皇子も、父の遺志を継いで、仏教の浸透に尽力します。彼らは、間違いなく”先導者=リーダー”です。

大海人皇子=天武天皇は、売られた喧嘩は買う、というスタンスではありますが、軍勢を率いて大友皇子を敗走させます。その後、自らを神の子=天子であると名乗ります。彼も”先導者”でしょう。

また、「光」の教祖:大友は、宇宙船内で火の鳥と遭遇したことをきっかけに、現人神として、人を導くことを決めます。

そして、シャドーの指導者である”おやじさん”も、「光」を倒すために、人々を導きます。そして、「光」を倒した後には「不滅教(エターナリズム)」という宗教を立ち上げます。太陽神という信仰対象によって自らを神格化した大海人皇子と同じ選択をするわけですね。

彼等は皆、優秀な「先導者=リーダー」です。しかし、それは、他人を巻き込んで自らの欲望を満たす「扇動者」でもあるのです。

主人公も例外ではないが・・・

主人公も、実は例外ではありません。未来においては、シャドーのために戦う”コマ”に過ぎない彼ですが、過去の世界では「犬上里」の”領主”です。彼は非常に良い領主として、領民に慕われていますが、彼が「仏教神を信仰しない」というスタンスを貫くせいで、領民は、何度も危機に陥ります。

彼自身、己の思想を貫き、それによって他人を「先導」する、「扇動者」でもあるわけです。

ただし、彼が、他の「先導者=扇動者」たちと決定的に異なることがあります。それは「自らは神ではない」と考えていることです。さらに「自らを神だと名乗るような人は、不遜である」と考えていることです。そのため、火の鳥と出会い、不老不死になるチャンスに巡り合っても、自らが不老不死となろうとは思いません。

この違いは、非常に大きい。自分自身が決して、神のような絶対的な存在ではなく、あくまでも「一個の人間」として、自らに関わる人を幸せにしたいだけだ、というスタンスです。

経営も、先導であり、扇動である。

この寓話は、そのまま現代の政治の話として語ることもできそうですが、このあたりは僕の専門外なのでやめておきましょう。いろいろ火種になりそうですしね。(笑)

ただ、このお話は、僕の専門領域である「経営」の観点でみても、なかなか示唆深いんですよ。ということで、そのお話を少しさせていただきます。

「経営者」は、先導者であり扇動者です。他の役員や従業員を、どんどんと巻き込んで(involve)、鼓舞し(encourage)、目的達成のために共に進むように仕向ける(lead&manage)必要があります。

しかし、自らを「神だ」「万能の存在だ」と考えてはいけません。

先導・扇動する快楽

人を導くという行為には魅力があります。その人が話せば、みんなが、その話を真剣なまなざしでじっくり聞いてくれるわけです。嬉しいですよね。承認欲求が満たされます。気持ち良いです。

しかし、その「先導・扇動する快楽」に身を委ねてはいけません。それは危険な兆候です。火の鳥の世界で、自らの万能感に従い、不老不死を望んだ権力者の末路は、すべからく悲惨なものでした。

ビジネスの成功は「まぐれあたり」も多いです・・・と、言い切ってしまうと各方面から怒られそうなので少しマイルドに表現すると、ビジネスの成功において「運」の要素が大きいのは間違いないです。さらにマイルドな言い方をするならば、いくら優秀な経営者であっても「時流」というものには逆らえません。それくらい不確実なものなのです。そんな不確実性の高い領域において、一度の成功体験が、どんな場面でも通じるなんて甘いことはありません、あり得ません。一度成功したからと言って、(多少似ているとしても)違うビジネスを、違うメンバーと、違うタイミングで立ち上げる、という状況において、同じ方法論・同じやり方で成功するとはとても思えませんよね。

結局のところ、自らが望んだ結果を得られるかどうかなんて、神のみぞ知る世界です。それを、自らの万能さだと勘違いするのは、大きな間違いです。成功者でさえそうなのですから、成功の途上にある人は、語るまでもないでしょう。

また、権力に固執するのも、人間の悲しい性です。多くの企業で、創業者の圧倒的な権力に起因する問題が勃発していますね。(最近話題になっている所では、大塚家具やロッテグループあたりでしょうか。まぁ、創業者と後継者のどちらが正しいのか、は別の話ですけれども。)シャドーの指導者も同じです。最初は、権力を欲していたわけではない”はず”なのに、一度権力が手に入りそうになると、それを求め、それに固執します。大海人皇子も同じでしたね。

一度手に入れてしまうと、失うことが怖くなります。もちろん、それが自分自身の成長のための力となるのであれば素晴らしいことですが、それを守るために非合理的な判断をし始めると、物事は破綻していきます。

(余談)政界に踏み出すのも、どうなんだろうね。

余談ですが、日本においては、ビジネスで成功したのちに、政治家を志す人が多いように思います。高邁なる精神で政治の世界に足を踏み入れる決断を下した方も多いだろうと思う一方で、うがった見方をすれば「経済的な成功の次に、社会的承認欲求を満たしたくなった」という側面があるのだろうなーと思ってしまいます、、、よね?僕だけじゃないですよね?(笑)。しかし、僕は、本作を読んでからは、「彼らは”先導・扇動したい欲求”に駆られているのかもしれないな」と思うようになりました。政治の世界で人々を「良き方向(だと自分が信じる方向)」へ先導・扇動することはビジネスとは別の力学を使って人を導くことになりますので、その困難さに対して魅力を感じているのではないか、と思うわけです。

もしそうだとすると、「己の理想」のために人を導きたいというのは”政治”ではなく”宗教”なので、色んな課題を抱えることになってしまうのではなかろうか、と思ったりもしますが、専門外のエリアに踏み込みつつあるので、このへんでやめておきまーす。ごめんなさい。指が滑りました。

あなたが、本当に欲しかったものはなんですか?

ビジネスだろうと、権力闘争だろうと、本当に自分が欲しかったものが何だったのか、を考えることが重要です。そこでのポイントは「欲しいもの」ではなく「欲しかったもの」です。最初に目的を決めておく、ということですね。

人というのは欲深い生き物ですので、成功していくにつれて、徐々に「欲しいもの」が増えてきてしまいます。しかし、「もともと欲しかったもの」は変わりません。正確に言えば、変えてはいけません。

何かが手に入れば入るほど、もっと欲しい、もっと得たい、となる気持ちはわかります。でも、その生き方に幸せはあるのか?と一度問うてみましょう。あなたがかつて、本当に「欲していたもの」を犠牲にして、「最近、欲しくなったもの」を求めてしまってはいませんか?と。

本作の主人公は、数少ない「自分らしさ」を貫いた人物です。先述したように、その「自分らしさ」のために、人々を先導・扇動し、危険にさらした側面は否めませんが、そんな彼は1000年の時を経て、恋人と再会します。そして、エンディングでは、カップルが、「誰にも圧迫されない狗族の世界へ!」と言い残して去っていきます。

人の世界(現世)には幸せなんてないのだ、という悲観的なメッセージとも読み取れますが、僕は、敢えて「精神的に満たされることこそが、真の幸福なのだ」というポジティブなメッセージとして受け取っています。

例えば、僕みたいな”考えることが大好き”な人にとっては、考え抜くことを許されている環境は最高ですね。それが与えられていることは、とてつもない幸福です。(だから、僕は今の仕事に非常にやりがいを感じているのです。)あるいは、大好きな人と共に時間を過ごすことも幸福でしょうね。そういう「精神的に満たされる」ことを忘れ、欲望の赴くままに”もっと、もっと!”と求め続けることは、果たして幸せなのでしょうか。

人が皆、足るを知るの精神を持ち、自らの幸福を正しく定義し、その幸福のための最大限の努力をしていく*ことが、人類が、火の鳥世界の不幸な無限回廊から抜け出すキッカケなのかもしれません。

関連記事:ギックスの本棚/幸福論(アラン)

(*:蛇足ながら、補足。こういう話をすると「サボってもいい」「楽したら良い」と思う人が多いようなのですが、断じて違います。ただ口を開けて転がり込んでくるものを待つことと、自ら何かを掴み取りに行くことは全くの別物です。身の程は知るべきですが、現状に甘んじるべきではありません。)

おわりに

1年以上の時間をかけて取り組んできた、深遠なる「火の鳥」世界の読み解きも、これにて終了です。この作品を読めば、手塚治虫が、どれほど平和を望み、人類を愛していたのかが分かるように思います。登場人物の大半は、人間臭くて弱い存在です。簡単に道を踏み外し、非常に多くの誤った決断をしていきます。15年ほど前、20代前半に初めて火の鳥シリーズを通読したときには感じなかった、こういう人間の「弱さ」「脆さ」が、アラフォーになって真剣に読み返してみた時には、非常に色濃く感じられます。彼らの弱さ・脆さが、戦争を引き起こし、多くの人の命を奪ってきたのだと痛感します。そして、その歴史が、永遠の時間の中で繰り返されていくことに深い悲しみを覚えます。

火の鳥の視点は、手塚治虫の視点なのだと僕は思います。しかし、火の鳥世界の創造主である手塚治虫は、決して、神として振る舞わなかった。火の鳥=手塚治虫は、常に、人間の営みの傍らに立ち、彼らが誤り、失敗し、壊れていく様を、ただ悲しそうに眺めるに留めました。ご都合主義な解決もなければ、真っ暗な絶望もない。ただ、淡々と、物語の駒を進めていく。

そんな風に客観的に描いているにもかかわらず、説教臭くもなければ、何十年たっても古臭くもならない、上質なエンターテイメント作品として成立していることが、手塚治虫が天才であることの証なのでしょうね。

読者に「考えること」を求めてくる稀有な作品

火の鳥シリーズを読むことで、あなたは、多くのことを考えることになります。僕がそうであったように。

超マクロの視点では世界の平和を考えることになるでしょう。そのまま、哲学的に「生命」そのものの意味に思いを馳せることになるかもしれません。反対に、ミクロの視点では自らの生き方について考えることになるでしょう。この場合は哲学的に踏み込んだ結果、自分自身の「人生」の意味・生きることの意味を考えることになるように思います。人によっては、マンガ(というか物語)の描き方を考えることになるかもしれません。ストーリー構成、コマ割り、台詞回し、構図、キャラクター設定、絵柄、どれをとっても独創的でありつつ、完璧に調整されていますので、非常に多くのインプットが得られるでしょう。

自分の成長段階によって、与えてくれるものが変わる作品は、マンガに限らず、映画・小説などすべての領域を統合しても、数少ないと思います。火の鳥シリーズは、その数少ない名作の一つですので、ぜひ、何度も読み返して頂きたいと思います。触れるたびに新しい発見があり、人生について立ち止まって考える機会をくれること請け合いです。

そして、僕らがみんな、火の鳥世界を反芻し、反省するような生き方をしていれば、いつか(あと何周するかはわかりませんが)、火の鳥世界の不幸な無限回廊から抜け出せるのかもしれません。そうなったときには、きっと、この世界から争いごとが消え去っているのでしょう。もし、そんな時代が訪れたら、本当に素敵ですよね!!

”Ask and it will be given to you.” 「求めよ。されば、与えられん。」

マタイによる福音書7章7節-12節

 

火の鳥 10 太陽編(上) (GAMANGA BOOKS)
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火の鳥 11 太陽編(下) (GAMANGA BOOKS)
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