人手不足対策の本丸は「何もしないこと」 冨山和彦×原田泰 対談(WEDGE 2014年8月号)/ニュースななめ斬りbyギックス

AUTHOR :  田中 耕比古

都会の視点=経済合理性に従う は、万能な指標なのか?

本日は、WEDGE 8月号 より、元BCG→CDIとコンサルタント道を邁進されている冨山和彦氏と、早稲田大学政治経済学術院教授である原田泰氏との「人手不足対策」に関する対談について、ななめ斬ってみたいと思います。

記事サマリ(WEDGE 8月号 p.36~38)

地方経済の現場では、売上高がゼロもしくはマイナス成長なのに「人手不足」が続いている。これは、経済合理性の面からみるとおかしな事態であり、即ち「経済効率が悪い状態」である。

本来であれば、「人手不足⇒ 競合を含め、市場全体で賃金上昇(人手を確保するため)⇒ 業績の悪い会社は給与を上げられない⇒ 人を雇えなくなる⇒ 倒産(人手不足倒産)」という流れが起こるべき。

その状態で、生産性の高い企業がこの「倒産した企業」を安価で買収すれば、「経済効率の高い状態」になる。

これを妨げているのが規制であり、各種融資や助成金の存在。さらに言えば、生産性の低い公共事業が人手を奪うことも、経済合理性を低くしている。

特に、バスのような「地域性」が高く「密度の経済性」が効いているところに、これらの阻害要因があると、事態は固定化してしまう。このような「人工的な安全装置」は、経済が良くなってくるにつれて外していくべきではないか。

経済が悪い状況では、低生産性部門も「失業者問題」を抱えているために残さざるを得なかったが、経済が上向いている=雇用吸収力がでてきた、ということなので、低生産性=残さなくてよい、という判断がなされるべき。

規制を上手く外しつつ、同時に、監査の仕組みなどを見直すことが重要だ。

「人手不足倒産」は本当に「良いこと」なのか?

本対談では、人手不足倒産について、以下のように語られます。(※原田氏の発言です)

最終的には、本当にバスの運転士が足りなければ、賃金が上がり、企業は倒産します。人手不足倒産です。そこで、生産性の高い企業がこの企業を安く買収すれば、経済全体の一人あたり生産性が高まります。少ない運転士でも効率よく運行できる会社が運営するわけだから。

こういう調整が起きていけば、日本全体の生産性は高まっていき、サービスも良くなります。人手不足倒産が起きて、雇用と仕事が生産性の高い所へ移動することを妨げてはいけない。人手不足倒産は実はよいことです。

この観点は、非常に面白い考え方ではある一方、その一点だけで「良いことだ」と言い切ってしまっていいのでしょうか。

というのも、可能性として「その地域から、そのサービスが消える」という最悪の事態が、起こり得るからです。

都市部を見ていると、市場を経済合理性の手に委ねたい、という気持ちはよくわかります。しかし、地方、特に、田舎をみていると、その意見には俄かには賛同しにくい所があります。よくネット上で話題にのぼる「武雄市問題」も、僕は根底は同じだと思っています。(関連記事:佐賀県 武雄市図書館を視察してみた

この問題を考える際に、僕がとても重要だと思うのは「公共・公益」という概念です。

「公共」とは何か

wikipediaより引用します。

公共とは社会全体に関することを取り扱う上において利用される用語であるが必ずしも抽象・理念的なものではなく、「私」や「個」と相互補完的な概念である。例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人にも恩恵をもたらす。ある種の協働や個人的なおこないが不特定多数の他人に、結果として広く利益をもたらすような状況はしばしば観察され、それらの類型がしばしば「公益」「公共行為」と見なされる。

しかし井戸の例では、井戸を掘ることが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的であるという個々人の合意が形成された場合に、はじめて共同井戸が成立する。「公共」の立場からは、「私」や「個」の利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着くという場合「公共」が成立するのであり、最初から全体の利益を優先して、個人や私人を意図的に信頼・重視しない全体主義とは異なる。

(出所:wikipedia

要点としては【ある種の協働や個人的なおこないが不特定多数の他人に、結果として広く利益をもたらすような状況】が、「公益」「公共行為」と見做されることが多い、というところだと思います。

「公共サービス」を、市場の競争原理に委ねてしまってよいのか、ということは、非常に悩ましい問題だと思います。言い換えれば「利益が出ないなら、やめてしまおうか」ということを”議論すべきではない”サービスが存在するのではないか、と思うのです。

非常に極端な例で考えると、「飲食店」は無くなっても困りません。食べ物(素材や調味料)を売っている店が存在すれば、家でご飯を作る、ということは(一般的には)不可能ではないからです。

しかし「バス」であったり、上記の「小売」のようなサービスは、”無いと困るサービス”である可能性が高いです。本文中でも、以下のように語られています。(冨山氏の発言です)

東京よりも地方のほうが高齢化と生産労働人口の減少が先に進んでいます。(中略)6,7年前からずっと運転士は足りません。でも、バスの乗客巣の減少は止まってきています。軽自動車を運転していた人が年を取って公共交通機関に帰ってくるんですね。医療や介護でも似たことが起きています。

このように「公共性が非常に高いサービス」を提供している企業を「経済合理性が低い」という理由で潰して良いのか。これは、非常に重要な論点です。

具体的に言うならば、潰れたバス会社を買収した「高効率企業」が、果たして不採算路線を継続運用するのでしょうか?これが、先ほど述べた「飲食店」であれば、不採算店を全て撤退してしまう、ということでも良いのかもしれませんが、バスで「路線が消える」あるいは「1日3本の路線を、1日1本にする」という決断の”正当性”とはなんなのでしょう。

もちろん「田舎に住む人は、経済合理性を無視して、一定のサービスを受け続ける権利がある」なんて暴論を吐くつもりはありません。「引っ越さない自由」は「不便を甘んじて受ける義務」とセットだと思います。しかしながら、そのような「快適には生きていけないサービスレベルしか得られない地域をつくる」ということを認めるのであれば「山奥の村落は、経済合理性の名の下に、片っ端から廃村としていく(=もう少し交通の便の良いエリアに移住するプログラムを組む)」というようなドラスティックな改革と同時並行で運用していかねばならないのではないでしょうか。

経済合理性の名の下に、「公共性」が低下してしまって良いのかどうか。その一方で、「公共のためなら何やってもいいわけじゃない」というバランスのとり方が、地方経済を考えるためには重要だと僕は思うのです。

補足:

冨山氏は、実際に、東北・北関東地域でバス・タクシー会社のホールディングスカンパニーの経営に携わっていらっしゃるとのことなので、そのエリアの実態にはまさしく合致したご意見なのだろうと思う一方、果たして、一般化して「日本全国の”ローカル経済”」に当て嵌めてよいものなのか。疑問が残るところです。本記事の関連記事として挙げられている、冨山氏の著書「なぜローカル経済から日本は甦るのか(PHP新書)」を未読のため、冨山氏の本来の主張とは異なる部分があるのかもしれませんが、この対談だけを読んだ感想としては、ちょっと理解しかねるなという印象を受けます。

また、ひょっとすると、地方都市の話をしているのか、過疎の田舎町の話をしているのか、で話が異なるのかもしれません。この対談で語られている「地方」は「地方都市」の話であって、過疎によって消滅間近な山村はそもそも考慮外、ということもありえます。上記書籍は、現在はAmazonで品切れとのことでしたので、手元に届き次第、拝読させていただいてギックスの本棚シリーズにてご紹介させていただこうと思います。

 

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