第十六戦:vs 胤舜 (第5巻より):”平常”を定義できなければ、”平常心”など保てない|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

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田中 耕比古
vagabond5

完全敗北

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第16回の今回は、宝蔵院の二代目(候補) 胤舜との戦いです。

バガボンド(5)(モーニングKC)

連載の概要はコチラから。

武蔵、初めての”恐怖”を知る

前回、祇園と武蔵の間に割って入った胤舜は、祇園の横薙ぎの一閃を見事にかわした後、武蔵と正対します。祇園が反応したのは「吉岡清十郎だけは、俺と同等の腕を持っていると認める」という言葉に対してなのですが、実際に、祇園の攻撃を事もなげにかわすあたり、あながち嘘とも思えません。

失うものなどないのに

槍を構えた胤舜に対して、武蔵は吠えます。

ごああああああっ

無意識の裡の咆哮だった

敵の存在の大きさに飲み込まれそうになるのをかろうじて拒絶するようなーーー

それは 武蔵初めての経験であった

武蔵は、体に蛇が絡みつくかのように感じます。祇園にも「芸がない」「しかも伸びもない」「……どうした?」と評されます。

数度の打ち込みで、傍目には互角とも思えるような戦いですが、武蔵の剣が相手にあたることは無く、胤舜の槍は二度、武蔵を打ち据えます。(尚、胤舜の槍の攻撃は突きだけではなく、柄の部分で横に薙ぎ払うような攻撃も多いです。)

その姿を見た祇園は、武蔵に問いかけます。

何やってる 貴様……

まるで別人

なんだその生ぬるい打ち込みは!?

そして、心の中でつぶやきます。「ビビッて力んでやがる。そのため剣の勢いは死ぬ。それこそが奴の強みなのに。」

そんな状況下で、武蔵は、自分の頭を、自身の木刀で殴ります。

硬くなってた 失うものなどないんだった

勝って天下無双に一歩近づくか 負けて死ぬかだ

リラックスして自然体を取り戻した武蔵は、持ち味の剛腕で斬りかかります。のびのびとした動きは、胤舜を捉えることはできないものの、周囲を驚かせます。そして、武蔵は、自分の思いを言葉にしてぶつけます。

胤舜 お前を倒したら 俺は強いと言えるか?

胤舜は、武蔵は十分強いと答えます。そして、自分を倒したら「天下無双を名乗れ」と言います。

魂を削る攻撃

凄まじい攻撃で、胤舜に肉薄する武蔵。まわりの(凡百な)僧兵の目には、胤舜に対して圧倒的に優勢だと映るほどです。その攻撃を受け流しつつ、胤舜は、感想を漏らします。

すごい剣だ

一振り一振りが まるで

お前の命そのものをぶつけられてるようなーーー

まさに、命そのもの、魂そのものを消耗しながら攻撃をする武蔵。しかし、さすがは胤舜。それらをなんとか捌ききり、結果的に、武蔵は0発。胤舜は4発の攻撃をヒットさせます。そのダメージの蓄積により、武蔵の足は止まり、視野は狭まります。

胴への一撃は内臓を直撃し、吐き気をもよおすほどですが、それを気合で抑え込み、武蔵は闘志を絶やしません。攻撃を受けつつも、心だけは折らない。そういう覚悟がみえます。

初めて胤舜と対峙したとき抱いた漠とした不安ーーー いっこうに拭えぬまま それは巨大化する

それを振り払うものは 怒り

しかし、いくら怒ったところで、優位性を得られるものではありません。祇園の「馬鹿がっ!!胤舜の間合いになってるぞっ!!」という声が響き渡るなか、武蔵の肺を潰さんばかりの胤舜の強力な突きが命中します。

さすがの武蔵も、膝から崩れ落ちます。

恐怖を受け入れるな

武蔵は、自分が圧倒的に不利な状況であることは理解しつつ、それを認めようとはしません。

人間と人間が戦うとき 息をひそめてじっと見つめる魔がいる

心にとりつき 食らいつくす

自らは動かず ただ執拗に 闇から見つめ続ける

ついに弱き者が 自らその闇に 逃げこんでくるまで

武蔵は本能的に知っている

一度戦いが始まったら 絶対に肯定してはならないーーー

受け入れてはならない感情がある

13歳の頃から 武蔵は勝者の立場で何度も見てきた

”恐怖”という魔が 漢を押しつぶすのを

精神的には負けない。この一念で、手に握った砂を投げつけて目つぶしをし、渾身の一撃を何発も放ち続けますが、胤瞬に致命的なダメージを与えるには至りません。

”命”のやりとり

胤舜は、武蔵に対して「お前を倒すには 殺すしかないんだろう?」と問いかけます。

俺に対して 死ぬまで向かってきた奴は 今までいなかった

ここから先は 未知の領域だ

命のやりとり

この勝負によって 俺はさらに 強くなるぞ……きっと!!

武蔵 殺す よもや恨むまい

武蔵の命を奪うと決めて、攻撃を続ける胤舜。それを、わずかに体を捻り、急所を外して致命傷を避ける武蔵。阿厳も、周りの僧兵も、そして戦っている胤舜も、その凄まじい生存本能に驚かされます。「戦うために生まれてきたような男のーーー本能か!!」と。

最後の炎

その後も、諦めずに戦い続ける武蔵。吉岡道場で受けた傷が開き、額や胸から血が噴き出る中、ぎりぎりで身を躱しながら渾身の一撃を放ち続けます。しかし、蓄積されるダメージの中、武蔵は”恐怖”に囚われ始めます。

(槍は)長い

(木刀は)短い とどかない

奴の体が遠い

右腕がひどい 動かない

血が 俺の血 止まらない

暗い

体が 冷たい

殺す気だ

そんな状況下で、武蔵は、阿厳の目に「不用意に打ちかかった」と見える一撃を放ちます。その隙を胤舜が見逃すはずもなく、難なく木刀を打ち落とし、トドメの一撃を放ちます・・・が、それを身を捻って躱して槍を掴み、なんと頭突きで攻撃する武蔵。何度となく食らった突きを、逆手に取ったというわけです。

数度の頭突きで胤舜の手が槍から離れたとみるや、その槍で逆に突きかかる武蔵。しかし、胤舜は、こめかみへの跳び蹴りで迎撃し、武蔵をけり倒します。

蹴り倒された武蔵は、胤舜の攻撃を避けながら、近くの僧兵の槍を奪います。”恐怖”に取り込まれそうになりつつ、それを振り払うかのように、その槍で殴りかかるものの、簡単にかわされて、槍で打ち据えられます。

お互いに血にまみれた二人は向き合います。が、ふいに武蔵に背中を見せた胤舜は、落ちた木刀を拾い、それを武蔵に渡します。左手に木刀、右手には折れた槍を持ち、二刀の構えで殴り掛かる武蔵。際の際まで来ました。

胤舜は感じます。

尋常ならざる殺気

そうかいよいよーーー どちらかが死ぬのだ

最期の炎

落ち着け 平常心

命のやりとりを経て 完璧の強さをこの手に

力むな はやるな ためらうな

投げつけられた槍(の切れ端)を避けもせず、武蔵の必殺の一撃を槍の穂先で「トン」と受け止め、起死回生を狙って武蔵が投げつける砂も腕でガードするという、冷静な対処を行う胤舜には、もはや死角はありません。

そして、この台詞です。

命を教わる

ありがとう 武蔵

武蔵は、「命を失う」という絶望に囚われます。武蔵の完全敗北です。

呑まれたら、負ける。

武蔵が、本当の意味での敗北をしったのは、この勝負だと言えるでしょう。完膚なきまでに叩きのめされ、強さとか天下無双とか言う言葉を忘れ「死」に強制的に向き合わされます。

戦いの途中にその場を立ち去った祇園は、歩きながらこんなことを考えます。

宮本の怒りに満ちた攻撃は 不安と恐れを映している

胤舜の攻撃には怒りも 憎しみもない それどころか敵への好意すら感じる

……実りある勝負をくれる相手を愛すかのようなーーー

胤舜と言う男 器が違う

宮本 勝負の先に何か見えるか?

武蔵の中には「我」しかありません。「師は?」と問われても「自然」としか答えられない事が示すように、誰かに育てられたとか、誰かに鍛えられたということがないのですから、仕方ありません。常に「己」が基準であり、それが、世間に対してどの程度なのかを知りたいという思いが、戦いの原動力です。

しかし、胤舜は(後ほど明らかになりますが)、幼少期から宝蔵院胤栄に鍛えられます。それは、技術だけではなく「心の在り方」も含めてのことです。

この差が勝敗を分けたとも言えるでしょう。戦いとは、技術だけではなく、心の問題に依るところが大きいのです。

”敵”への好意を抱けるか

「敵への好意」と言う言葉は、なかなか衝撃的ですが、これを「敬意」と言うと、また少し印象が異なるように思います。

ビジネスにおいても、”敵”とまでは言いませんが、それなりに「距離を感じる」相手とコミュニケーションを取ることがあります。社内コミュニケーションでもあると思いますが、特に、我々のようなコンサルタントは、様々な方とお会いして、討議したりヒアリングをしたりする機会が多いです。そういう場合に、相手に”敵対心”を持たれているな、と感じる事もあるわけです。

こういう場合、一番やってはいけないのは、自分も”敵意”を出すことです。相手がクライアントだから、失礼にあたる、とか、そういうことではなく、「硬い物」に「硬い物」をぶつけても、跳ね返るもしくは壊れるだけだからです。「硬い」には「やわらかい」が良いのです。(反対に、相手が「やわらかい」状態の場合には、敢えて「硬い」を当てて反応を見る、というテクニックもあります。就職面接で”圧迫面接”とか言われるものが代表例でしょうね。)

ただ、心の鍛錬が足りないと、相手に呑まれてしまいます。「硬い」に飲み込まれると、こちらも硬くなります。そうすると、打ち合わせの場をコントロールすることはかないません。コンサルティングでいえば、1回のミーティングを無駄にすると、その損失は計り知れません。また、一度、関係性がネガティブなものになると、限られたプロジェクト期間中にその関係を修復するのは非常に困難です。一度抱かれた印象を覆すのは、本当に難しいことなのです。(同じ会社に属する人だとしても、一度抱かれた印象は、そう易々と覆りません。長い時間をかけて、コミュニケーションを深めていくしかないでしょう。)

胤舜は、「平常心」と、自らに言い聞かせ続けています。これは、精神的な鍛錬の賜物です。恐怖に呑まれてはいけない、という武蔵の考えと、根本は同じなのですが、「あるべき姿に向かう」という胤舜のアプローチと、「恐怖を打ち払う」という武蔵のアプローチとは真逆ですよね。心を整えるアプローチと、心を無理矢理動かすアプローチ、とでも言いましょうか。とにかく、真逆だと思います。

結局のところ、対人コミュニケーションにおいて、有意義な時間を過ごそうと思うのならば、「我」にとらわれてはいけないと言うことだと思いますし、それと同時に、相手に不用意にコントロールされてもいけない、と言うことだと思うのです。大事なのは「平常心」。そして、それを実現するためには、「平常」という言葉の意味するところを、自分なりに定義できるように鍛錬しておくことが大前提です。

僕は、色々な方と(初対面で)コミュニケーションする機会は非常に多いですし、今後、ますますその機会が増えてくるだろうと思っています。その際に、今回の武蔵のようにならないように、日々の”心の鍛錬”を怠らないようにしたいものだなと思います。

 

連載の全体像はコチラから。

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