第二十一戦:vs 柳生石舟斎 (第9巻より):芍薬の切り口は、何を意味するのか|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

OUTPUTを通じて語り合う。

バガボンド(9)(モーニングKC)

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第21回の今回は、柳生石舟斎が斬った「芍薬の花」を通じた学びです。

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達人の切り口

前回、武蔵が柳生兵庫助と旅籠の風呂で出会ったのと並行して、吉岡伝七郎が柳生の里を訪れています。伝七郎は、柳生石舟斎に教えを請いたいと云うのですが、柳生では武者修行は全てお断りということで会おうとしません。そこで、柳生石舟斎が、おつうに芍薬の花と手紙を言付けます。それを旅籠の一室で受け取った伝七郎は、

これだけーーー ・・・でござるか

(中略)

仕方がない ・・・がいずれ また 必ず来ます

そのときは是非ともお目にかかるとお伝えください

と、芍薬の花を、おつうに返します。

おつう:あれっ これはお土産にと大殿が・・・

伝七郎:むっ 吉岡拳法が次男 この吉岡伝七郎に花などが似合うとお思いか

おつう:いーえ 全然

おつうは、その芍薬を受け取り、旅籠の女中にプレゼントします。その女中は、ちょうど武蔵の部屋にお茶を運ぶところでしたので、芍薬を持ったまま武蔵の部屋に入ります。武蔵の殺気におびえた女中は、お茶の準備で失敗し、お湯をこぼしてしまいます。

武蔵:おい・・・その花は・・・ なんという花だ・・・・

女中:はっ!? あっ これは・・・ ご場内の女の人に頂いた芍薬です は・・・花 好きですか?

武蔵:うん・・・けっこう好きだ

女中:あっ・・・ほんとに?私も大好き じゃあ壺に水入れてきます

この会話は、胤栄に言われた「なんという殺気か」という言葉を思い出して、女中を怖がらせてしまったことへの反省からでたものです。しかしながら、まさしく「武家の子らしくありたい」伝七郎と、「自然体でありたい」武蔵の差が垣間見えるやりとりでもあります。

こうして、芍薬を手に入れた武蔵は、その”切り口の非凡さ”に気づくのです。

花を殺しているだけ

戻ってきた女中に芍薬を持たせて、それを一刀で切り分けた後(当然、女中には泣かれます)、その”両端”を見比べて、武蔵は「うーむ」とうなります。

やはり違う

俺の斬った方と 城内の誰かが斬った方

翌日、武蔵は、野に咲く花を何本も切り、その切り口を眺めます。

違う これじゃ花を殺しているだけだ あの芍薬の切り口は違った

あれは・・・ 切られていながら なお生きているようなーーー

武蔵は、この「非凡な切り口が誰の手によるものかを知りたい」という手紙とともに、城太郎に芍薬を渡し、柳生の城に届けさせます。柳生の四高弟は、武者修行は断るというルールにのっとって無視しようとも考えるのですが、「大殿(石舟斎)が斬った芍薬」であることから、武蔵と会ってみたいなと考え始めるのです。ということで、次回は、柳生の城に乗り込むことになります。

伝七郎との再会

本筋からは外れますが、花を切りまくった武蔵は、伝七郎と道で出会います。周囲の護衛は身構えますが、伝七郎はそれを制し、「初春に会おう」と伝え立ち去ります。

武蔵:吉岡殿 道中の慰みに花をやろう

伝七郎:むっ いらぬ!!

ここでも「武士らしくありたい」伝七郎節がさく裂ですね。その後ろ姿に花を投げる武蔵。それを一刀で切り裂く伝七郎。

伝七郎:フン この伝七郎に花などが似合うと思うか

武蔵:(切り口を見て)・・・ 死んでるよ 吉岡伝七郎

伝七郎には、なんのことかわかりませんが、武蔵の目には、伝七郎は、自分と同じ程度の実力値に過ぎない、ということが見えているのでした。

学びとは与えられるものではない。感じ取るものだ。

芍薬の花の切り口を見ても、吉岡伝七郎は何も感じません。それどころか、柳生の四高弟たちも、見分けがつかないと口々に言います。

そりゃそうですよね。だって単なる「切り口」ですよ。「切り口」。しかも、武蔵も相当な腕前です。野に咲く花を斬ったときに、その花に乗っているハチが飛び去らない(つまり、花が切られたことに気づかない)くらいの常人ならざる腕前ですから、切り口がつぶれてるとかそういうことじゃないんですよ。見分けがつくわけないですよ。

これが見分けられる、というのは、”達人”が、別の”達人”をみてるときだけですよね。骨董とかの目利き力と同じです。難易度高すぎ。笑

このレベルになってしまうと、我々凡人の想像の域を容易に越えてしまうわけですが、現実世界でも同じようなことはあると僕は思うんですね。先日ご紹介した書籍「スーパーボス」の際にも述べたように、何らかのインプットを得た場合には「そこに何が書いて/描いてあるか」ではなく「そこから何を得るか」が大事なのです。漫画を読んでも、映画を観ても、絵画を眺めても、ホテルやレストランでサービスを受けても、あるいはキレイな景色をみるときにも、同じことです。(僕の”書評”や”ニュース解説”は、そういう気持ちで書いています。)

同じ本や資料を読んだとしても、そこから何かを感じ取って学び、自らの血肉とできるかどうかは受け手次第です。(伝七郎には無理で、武蔵にはできたのと同じです。)コンサルタント業をしていると、競合他社(コンサルファーム)の資料を目にする機会があります。同じクライアントの前フェーズを担当していたファームの資料をみてインプットにする、というようなケースが多いです。あるいは、社内でサニタイズされた(=クライアント名やプロジェクトの詳細を削除・改変することで情報を秘匿した)資料をインプットにして、その”考え方”を学ぶ、ということもあります。目の前に作成者がいない状態でアウトプットだけ見ているわけですね。

これは、「芍薬の切り口」を見ているのに似ています。

ビジネスにおける”芍薬の切り口”

資料には、作成者の意図が込められています。(1枚だけ抜粋されたものをみるときよりもパッケージ=パワポのファイル単位でみる方が、パッケージで見るよりもプロジェクト=複数のファイルを時系列でみる方が、よりクリアになります。)どこまで考え抜いたのか。どういう視点・着眼点をもってプロジェクトに臨んだのか。複数ファイルを見ている場合には、どこで方向転換したのかということまで見えます。アウトプットが語りかけてくるんですね。

そういう観点で他社/他人のアウトプットを眺めていると、自分のアウトプットが、どれほど語り掛けているか?を自らに問うのが自然な流れでしょう。芍薬の切り口を比べてみたくなるわけです。そうすると「死んでるな」と思うことも増えます。生き生きと語り掛けてこないパワポ、量産してるんじゃねぇか?、と。

コンサルのアウトプットの場合、メッセージの文言ひとつひとつ、チャートの縦軸と横軸の取り方、目盛りの切り方、色の使い方、紙の順番、章立て、ありとあらゆる部分に「伝えたい物事の一貫性があるか」「それを誤解を生まずに伝えるための徹底的なこだわりがあるか」というあたりが、切り口の瑞瑞しさかなと思うんですよね。(関連記事:文字が多いパワーポイントは、本当にダメなのか

コンサルに限ったことではなく、モノづくりならば、ビス止めの部分やバリの処理、細部の着色部分などが”語りかけて”きますよね。料理でも、盛り付けなんかが分かりやすいですけど、下処理のうまさによる雑味の消し方なんかも雄弁です。ホワイトカラーな皆さんの場合も、営業資料や企画書、なんならメールの文言なんかも、全て「アウトプット」ですね。(関連記事:メールを「書ける人」と「書けない人」

相手も、見ている。

ビジネス界において、いろんな芍薬の切り口がある、ということはご理解いただけたことと思いますが、ここで忘れてはいけないことがあります。それは「切り口は、相手からも見られている」ということです。

人という生き物は、ついつい自分自身を中心に物事を捉えてしまいがちなんですけど、世の中には、常に「相手」が存在します。自分が観察しているのと同様に、相手もこちらを観察しています。ですから、「すべての”芍薬の切り口”を、全力でベスト・クオリティに仕上げる」という姿勢が大切です。

自らの出したアウトプットが、一人歩きしても大丈夫なくらいに魂を込める。そういう姿勢がプロだと思うんですね。そして、それくらいアウトプットに気合を入れるからこそ、そのアウトプットを元にしてアウトカムを生み出すことが可能となるのです。精進しましょう!精進します!!(関連記事:アウトプットとアウトカムは別物

 

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