ギックスの本棚/職業としての小説家(村上春樹|スイッチ・パブリッシング):これを読んでもおそらく小説家にはなれないが、プロの生き様を知ることはできるだろう

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この人は、小説家としてではなく、村上春樹として生きている

本日は、村上春樹さんの自伝的エッセイと称される「職業としての小説家」をご紹介します。

書評を書きにくい本

僕はこれまで、ギックスの本棚と称して多くの本を紹介してきました。その多くは、書評というよりも「僕が、どう感じたか」であり、「僕が、それをインプットにして、どういう発展性を生み出せるか」を書きつくねたものでした。それでも、200冊近く読み解きなり、読み込みなりを進めてくると、それなりの「型」というものができあがり、なんとなく「書評っぽく」なってくるものもあります。

そうやって多くの本を紹介する中で「非常に書評を書きにくい本」がいくつかありました。そして、この本は、その中でも ”もっとも書評が書きにくい本”です。もちろん、そもそもエッセイと言うものが、書評を書きにくい類の本だということもあります。しかし、これは「村上春樹の世界」を「村上春樹本人が語る」という、完全に閉じた世界観を語る一冊だから難しい、んだと思います。”評する”ということができないんですよね。

そんな中でも、敢えて括り出して「僕なり」に”何か”を述べようとすると、次のようになります。

「これは、プロフェッショナルを目指す人が読むべき一冊だ。」

プロフェッショナルを志す、ビジネスマンの”本書の読み方”

小説家になりたい人や、村上春樹を好きな人は、ほうっておいてもこの本を読むでしょう。しかし、僕は「村上春樹の小説に興味が無いビジネスマン」に、是非、読んでもらいたいなと思います。このエッセイは、結局のところ「職業観の話」であり「職業というものから離れて生きてはいけない(つまり、日々、労働の対価としてお金を稼がずには生きていけない)人間の生き方論」であるわけです。言い方を変えると「ライフワークの在り方」ってやつなんですよね。

本書の目次を見ると、「第五回:さて、何を書けばいいのか?」や「第九回:どんな人物を登場させようか?」、あるいは「第十回:誰のために書くのか?」などの見出しに分かれています。そのため「何を書くか・どう書くか」のようなことが書かれているのではないかと思う人も多いと思います。

しかし、ここには、「何を書くべきか」「どのように書くべきか」といったような”べき論”は一切存在しません。ここにあるのは「村上春樹は、どうやって、何を書いているのか」という、一点に尽きます。(むしろ、書き方の参考にしたいという方は、スティーブン・キングの「書くことについて」を読んだ方が良いかもしれないです。)

職業「小説家」としての生き方

村上春樹さんの小説を書く、という生き方は、非常にストイックです。例えば、「長編小説を書く」ということについての記述を抜粋してみます。

長編小説を書く場合、僕はまず(比喩的に言うなら)机の上にあるものをきれいに片づけてしまいます。「小説を書くほかには何も書かない」という体制を作ってしまうわけです。もしそのときエッセイの連載なんかをやっていたら、そこでいったん中止してしまいます。

何か大きな仕事に取り組む際の「体勢」として、かなり共感できます。(まぁ、僕たちがその環境づくりを実践できるかは別にして)

アイザック・ディネーセンは「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」と言っています。それと同じように、僕は毎日十枚の原稿を書きます。とても淡々と。「希望もなく、絶望もなく」というのは実に言い得て妙です。朝早く起きてコーヒーをお温め、四時間か五時間、机に向かいます。一日十枚原稿を書けば、一か月で三百枚書けます。

さらに、このペースが、絶対不変のモノであることが述べられます。

長編小説を書く場合、一日に四百字詰原稿用紙にして、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。僕のマックの画面でいうと、だいたい二画面半ということになりますが、昔からの習慣で四百字詰で計算します。もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないなと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

この仕事のペースという概念は、非常に重要です。僕は「ノリ」で仕事をするタイプの人間ですが、その「ノリによるUP-DOWN」も含めて、納期内で最高品質のものを出すように調整しています。村上さんの小説と、やり方・アプローチは違いますが、やってることは同じです。

続いては、思考力と体力のお話です。

体力が落ちてくれば、(これもあくまで一般的に言えば、ということですが)それに従って、思考する能力も微妙に衰えを見せていきます。思考の敏捷性、精神の柔軟性も失われてきます。(中略)

僕は専業作家になってからランニングを始め(走り始めたのは『羊をめぐる冒険』を書いていたときからです)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。(中略)

そのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高まってきたし、想像力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかなと、常日頃感じていました。

これ、30代の半ばを過ぎたあたりから、僕自身、非常に強く実感できてきました。村上さんの短編に、35歳の誕生日を人生の折り返し地点と定めて、毎日ストイックに泳ぐことに決めた男がいたと思うのですが、ちょっと気持ちが分かります。(僕は35を過ぎてジム通いを始めました。最近は、禁酒&オフィスで腕立て伏せに取り組んでいます。)

小説家にせよ、多くのサラリーマンが属する「ホワイトカラー」にせよ、多かれ少なかれ”知的に戦う”商売であれば、この「知的に衰えていくことの恐怖」は、常に感じていることだと思います。それへの備えとして「走りたかろうと走りたくなかろうと、毎日走るという姿勢」は、非常に尊敬できますし、それが、「書きたかろうと書きたくなかろうと(あるいは、書けようとも書けなかろうとも)、毎日十枚書くという姿勢」を作っているのだということも理解できます。プロって、そういうものですよね。(関連記事:連載|プロフェッショナル・ビジネスマンになろう

村上春樹がどうするか、にアナタが合わせる必要はない

前述したように、この本は「村上春樹の生き方・生きざま」を教えてくれる本です。しかし、それは「村上春樹だからできる(できた)」ということであり、「村上春樹だからピッタリくる」ということに過ぎません。そのため、それを誰かが真似したからといって、良い結果を招くとは思えません。往々にして、こういうものは”結果論”に過ぎないのです。

では、どうするのか。ありきたりですが「概念化」するしかありません。「村上春樹という具体例」を「長く何かをやり続けるための概念」に昇華させ、それを「自分自身の生き方という具体例」として具体化するわけですね。そうすることで「物書きのプロ」である村上春樹の”プロフェッショナルな側面”を理解し、そのプロフェッショナリズムを己の血肉とすることができるでしょう。(関連記事:抽象化と概念化を間違えない

この本を読んでも、残念ながら小説家にはなれません。(この本を読んで、小説家として成功できる人は、きっと、この本を読まなくても小説家として大成するハズです。)しかし、プロフェッショナルの生き方を知るという意味では、得るものが非常に多い一冊です。

シルバーウィークに腰を据えて読み、自分の職業人生を見つめ直すための材料とするのがオススメかと存じます。お試しください。


職業としての小説家 (Switch library)

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