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神という名のイノベーション|馬場正博の「ご隠居の視点」【寄稿】

AUTHOR :   ギックス

 人間が巨大集団を維持するために作った一つの概念上の存在

「イスラム国」(以下ISIL)のショッキングな人質事件がありました。人質を取り、その斬首の映像をネットで流すというISILの行動は過激というより狂気を感じさせるものです。ISILはイスラム教を謳っているものの原理主義的なカルト集団で、一般のイスラム教徒とは峻別しなければなりません。ただ一方で、現代の世界は、かつての冷戦のような資本主義と共産主義の対立から、キリスト教圏とイスラム教圏という文明同士の衝突があり、それが過激なテロ集団という形で表れているという側面があるのも事実です。

人はなぜ宗教を持つのか?

日本人は宗教意識が希薄だと言われています。神式で結婚し、仏式で葬式を行い、クリスマスやハロウィーンを祝う。日本人の宗教感覚は欧米のようなキリスト教国家やイスラム教の国々の国民とは違うのかもしれません。しかし、その日本でかつてオウム真理教の大規模な殺人事件がありました。輸血を拒否するような厳しい戒律を持つ宗教に帰依する人も少なくありません。宗教心を持つということで日本人が例外というわけではないと言ってよいでしょう。ところで、人はなぜ宗教を持つのでしょうか。

「見えざる手」というのは、18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスの言葉です。人が行う経済活動は皆自分のための利己的なものでも、「見えざる手に」導かれて、全体としては市場が機能し資源の配分は最適化され、人々は豊かに生活することができる、これがアダム・スミスが「国富論」の中で語ったことでした。世の中には泥棒や詐欺、さらに強盗殺人のように他人を犠牲にして利益を得ようとする輩がいます。もちろん、このような行為は犯罪として罰せられるのですが、「見えざる手」がうまく人の行動を社会の利益へと結び付けることができなかった、つまり「見えざる手」の失敗と言うこともできます。

人間の利己主義が一方では「見えざる手」によって経済を円滑に動かす原動力となるのに、もう一方では社会を破壊してしまう。そうすると利己主義にも良い利己主義、悪い利己主義があって、悪い利己主義が蔓延しないようにしなければいけない。そもそも悪い利己主義とは一体何のか。こんな子供のするような質問は案外答えにくいものですが、「何が悪いのか」は「モーゼの十戒」にはきちんと示されています。ご存じのように「モーゼの十戒」とは、旧約聖書に書かれているように、モーゼが神から授けられた戒律とキリスト教で信じられているものです。

戒律と言うとずい分厳しいものように思う人もいるかもしれませんが、「モーゼの十戒」が言っているのは、主が唯一の神であることを信ずることや偶像崇拝を禁じること以外は、盗んではいけない、殺してはいけない、といった現代社会でも常識的なものです。このようなものをわざわざ石に刻みこんで人々に守ることを強く言う必要などあるのでしょうか。こうした疑問を抱くのは、私たちが盗みや殺人が悪い事だと信じ込んでいるからです。しかし、他人の物を盗んだり、他人を殺してはいけないと言うのはなぜなのでしょうか。それはそんなことを許しては社会が崩壊してしまうからです。それでは社会とは何なのでしょうか。

神というのは大きな社会をまとめ秩序を作るための強力なイノベーション

チンパンジーも群れを作り、その中では勝手に他のチンパンジーの物を盗ったり、殺すことはしません。そのような行為はチンパンジーの集団を崩壊させるので、ボスが取り締まります。しかし、群れが違えばそのような禁忌はなくなります。他の群れのチンパンジーを殺そうが、食物を奪おうが自分の属する群れからチンパンジーが罰せられることはありません。人間も群れを作ります。しかし、類人猿の延長としての人間の作る群れの大きさは100-150人くらいが限度(霊長類では群れの大きさは脳の容量にほぼ比例します。霊長類の作る群れの中の個体数はこの法則の発見者にちなんでダンバー数と呼ばれています)と考えられています。それ以上の集団はボスの威令やそれまでのコミュニケーション手段だけでは維持することはできず、集団を統率する社会制度が必要になります。社会制度によってまとめられた集団を社会と言い換えても良いでしょう。

社会制度を作るとしても、何の社会を維持するために守るのか、そもそも社会を維持することに価値があるのかは、必ずしも自明ではありません。自分や家族が飢えている時、名前も顔も知らない他人の食料を奪い、抵抗したら殺してしまう、というのは正しい行為なのではないか。そんな時「神が許さない」とするのは、社会の秩序を保つために有効な方法です。今太古に二つの人間の集団があり、一方はボスの威令だけで集団をまとめ、もう一つは神の力で集団の秩序を維持しているとします。二つの集団が対立すると、神を持つ集団の方がより大きな集団を作ることができ、結果的にもう一つの集団を圧倒することができるでしょう。つまり、神というのは大きな社会をまとめ秩序を作るための強力なイノベーションなのです。

人々を律する存在としての神という概念を人類がいつ頃作り出したのかは定かではありません。自然に対する畏怖の気持ち、強く大きい動物への恐れ、そのようなものが、社会秩序を維持するための戒律を与えてくれる存在になり、宗教として体系化されたのは、そんなに昔ではないでしょう。なぜなら、人類史大半では人類の作る集団の大きさは人類のダンバー数、100-150人に収まっていると考えられるからです。人間が農業を始めたのは氷河期が終わった高々一万年ほど前からですが、農業により人々は定住し、より大きな人口を養うことができるようになりました。戒律を与えてくれる神(そしてそれを信じる宗教)はその頃から後に登場したのではないかと思われます。

一神教であることにより対立

神という強力なイノベーションの中でも、より大きな社会集団を作るには、唯一の存在として形も現わさず、あらゆるものに遍在するほうが、より強くそして広く人々を秩序に従わせます。神があらゆるところにいれば、誤魔化すことはできません。司法機関から逃れることはできても神の目を避けることはできない。これは各個人を大きなコストをかけずに統治し治安を守るためにとても有効です。あらゆるところに偏在するためには神が具体的な姿形をしていることはできません。イスラム教とキリスト教が偶像崇拝を禁じているのはそのためです(キスと教の偶像崇拝否定は大分緩いものですが)。
一神教であるキリスト教やイスラム教が他の宗教に苛烈だった理由も明白です。善悪の基準を異にする人々を信用することはできないし、そのような人々は神の戒律で守る対象ではないのです。それはチンパンジーが他の群れのチンパジーには全く無慈悲であるのと同じと言っても良いでしょう。共通の根を持つキリスト教とイスラム教は、一神教であるが故に、激しい対立を続けてきました。中世、十字軍の時代はイスラム教徒が優勢でしたが、近世に入りキリスト教国が優先に転じました。その大きな理由に宗教革命と国民国家の成立で、世俗の世界はキリスト教の戒律ではなく、法治によって国民を支配するようになったことがあります。

これは大きな変化です。元々キリスト教は法王という宗教上の権威と世俗の権力者は別のものでした。しかし、宗教革命から国民国家の成立を通じて、ヨーロッパでは宗教が社会を律するものではなく人々の心の中のものになり、社会を律するのは国と法律という分離が明確になったのです。近代に入るとこの変化は、世俗の権力を国から奪った民主主義を生み、経済活動を「神の手」言葉を替えれば市場経済の自由に任せることになったのです。さらに、科学の世界では進化論というエデンの園に始まる神の作った人間という信仰を否定するものまで生み出しました。

神と宗教は大きな人間集団を形成することができる一つのイノベーションでした。しかし、強い規律を保つのには適したイノベーションは、同時に戒律を時代や環境に合わせて変化させることを難しいものにしてしまいます。その歪んだ現れが原理主義です。原理主義とは宗教で定められた戒律、つまり神の意志に忠実に従おうとすることです。アメリカでは進化論を否定する人々が国民の半数を超えていると言われています。原理主義はイスラム教の専売特許では決してありません。しかし、原理主義的な宗教理解がキリスト教国で政権批判につながることはありません。政権とは世俗の世界であり、宗教的な権威、戒律からは切り離されているからです。

 「原理主義」が政権批判の手段になる

その意味でイスラム法を法として運用するようなイスラム教国はキリスト教国よりはるかに原理主義が政権批判の手段になりやすいと言えます。同様のことは、毛沢東が実権派と呼ばれるライバルを蹴落とすために共産主義的な原理主義を使った文化大革命でも見られました。造反有理を掲げた毛沢東を崇拝する紅衛兵たちは「資本主義的な言動がある」と言って多数の政治家、事業家、学者を糾弾しました。その過程で数千万の中国国民の命が奪われたと言われています。

現実の世界は複雑で変化するものです。その現実世界で、はるか昔に作られた宗教の戒律や教えに字義通り従おうとする原理主義は根本的な危険をはらんでいます。しかし、原理主義は原理的であるが故の明快さで、大衆だけでなく、頭脳明晰で論理的な人々の心をとらえることも稀ではありません。仏教原理主義とも言えるオウム真理教の入信者に偏差値の極めて高い学校の人たちがいたのは、決して偶然でも何でもないのです。

この宇宙に神というものがいるのか、神を前提としないで宇宙の創造と終末を語ることができるのかどうかは判りません。しかし、宗教と宗教が描く神は、人間が巨大集団を維持するために作った一つの概念上の存在に過ぎません。原理主義とは結局人間の頭の中の概念に囚われて身動きできなくなる危険な袋小路です。ISILの残虐さはその極端で不幸な現れだと言えるでしょう。

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馬場 正博 (ばば まさひろ)

経営コンサルティング会社 代表取締役、医療法人ジェネラルマネージャー。某大手外資メーカーでシステム信頼性設計や、製品技術戦略の策定、未来予測などを行った後、IT開発会社でITおよびビジネスコンサルティングを行い、独立。

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