ギックスの本棚/自修自得す(北尾吉考|経済界):プロのベンチャーキャピタリストの声を聴け

AUTHOR :  田中 耕比古

北尾さんは、ホンマモンでした。

自修自得す

本日は、SBIホールディングス株式会社 代表取締役 執行役員社長 北尾吉考氏の「自修自得(じしゅうじとく)す」を取り上げます。(尚、本書は、北尾さんのブログを書籍化したもので、既に第8弾になるのだそうですよ。すごい。)

自修自得=自律的に行動して成果を勝ち得よ

自修自得。この言葉は、松下政経塾の塾訓として知られています。

塾訓:
素直な心で衆知を集め
自修自得で事の本質を究め
日に新たな生成発展の
道を求めよう

出所:松下政経塾

自ら修め、自ら得よ、ということですので、「自律的に行動して、成果を勝ち得よ」ということかと思います。

経営者として「第3章・第4章」、若手として「第5章」を読む

先日、発表された通り、弊社(株式会社ギックス)はSBIインベストメントの運営する”FinTechファンド”を引受先とする1億円の第三者割当増資を行いました。上述した増資に際して、弊社役員3名で北尾さんとお会いする機会を頂きました。僕の手元にあるのは、そこで直接手渡しで頂戴したサイン本です。

その場で交わされた話の内容については、当然ながらここでは触れられないのですが、率直な感想を述べるならば「この人は、骨の髄までベンチャーキャピタリストなんだな!」と感じました。おこがましい表現なのは百も承知ですが「ホンマモンやっ!」と思ったんですよね。もちろん経営者としても非常に優れた方であることは間違いないのですが、お打合せでお会いした僕の感覚としては「ホンマモンのベンチャーキャピタリスト」という印象を受けました。

僕は、戦略コンサルタントとして10年のキャリアを積み、経営者として3年を過ごしてきました。年齢も40を目前としていますし、いわゆる「若手ベンチャー経営者」よりも ”客観的に” 事業を見ている、という自負を持っていました。多くの経営者は、(その是非はさて置いて)目の前の事業に意識を奪われて視野が狭まります。それを一所懸命と評価することもできますし、そうだからこそ事業が成功するのだという意見も理解できます。しかし、弊社の場合は、その役目を社長である網野が負っていますので、僕自身は可能な限り「コンサルタント」として自社を客観視していくように努めています。

しかし、北尾さんから頂いたコメントをお聞きして、僕の視野が如何に狭く、その思考が如何に固定観念に囚われていたのかということに気づかされました。「戦略コンサルタントという立場を貫きながら、自社を経営する」なんて、普通なら実践できないことをやろうと試みるのに、このままでは全然ダメだなと痛感したわけです。

そんな衝撃とともに僕の手元に舞い込んだ本書に対しては、「経営者」という立場で挑むべきだと僕は思っています。そのため、第3章:経営及び経営者を考える、第4章:リーダーとは何か、をしっかりと読み込まねばなりません。また、北尾さんから見れば、アラフォーの弊社役員3名はまだまだヒヨッコです。そういう意味では、第5章:仕事の極意、を若手としてしっかり読み込んでいきたいなと思います。(尚、もっとオトナになろうということだと、第6章:安岡正篤先生に学ぶ、第8章:人間力を鍛える、も捨てがたいところですが、本稿ではその解説は割愛します。)

第3章:経営及び経営者を考える

ここでは、3つの項から、引用します。

ただ一つ言い得るのは、これだけ変化が激しい時代にあって経営者に求められるのは、ある程度の先見力を有し、3年先5年先の見通しが後追いでほとんど正しかったと、結果証明されていくようでなければならないということです。

したがって、リスクを取る取らぬというよりも、ある程度の確度を持って「これをやったらこういうネガティブな展開が有り得るだろう」とか「これをやればこういうふうに物事は進展して行くのでは」といったある種の読みがきちっと出来る、いうなれば未来を認識する能力が経営者には必須なのです。

(鳥の目・虫の目・魚の目、先を見通す眼)

経営者には、先を見通す力が重要。短視眼的になったり、ふとした思い付きに目を奪われたりして、大局観を失ってはいけないわけです。

経営者、しかも創業社長の場合は、恐らく日に8時間働いただけで済むという日は、年間を通じてほとんど無いのではないかと思います。すなわち、寝ている以外は会社に関する事柄を考えるのが常であり、それを出来るだけ減らさねばと思いながらも、日々さまざまなディシジョンメイキングに迫られる中で止むを得ないようになるわけです。

寝ている間ですら奥歯をかみしめたり、歯軋りをしている経営者も多いと聴きます。私自身もそういう時もあり、歯がぼろぼろにならぬように何時もマウスピースを嵌めて寝ています。

(いま日本人にチャンレンジスピリットは足りてるか)

北尾さんが、今でもそんなプレッシャーを感じながら、戦い続けているのに、僕らが「ちょっとでも楽をしたい」なんて言ってちゃダメですね。

撤退という作業は物事を始めるよりも遥かに難しいことです。過去の成功体験に溺れることなく、常に自己否定し自己変革を遂げ、そして自進化し続けて行かねばなりません。これすべて、トップはこの時世と社会を洞察し、その変化に勇気を持って応じられねばならず、それが出来ないトップであれば国であれ企業であれ末は破滅の道を辿るのです。

(撤退の難しさ)

経営には先読みが大事、というお話がありましたが、読み間違える事や状況が変わってしまうこともあるでしょう。そんなときに、如何に自己否定ができるか。肝に銘じたいところです。

第4章:リーダーとは何か

この章からも、3つの項より引用します。

これは私の判断基準でありますが、リーダーはそれぞれに確信の持てる自身の絶対的物差しを持つ必要があるでしょう。なぜならそれを持たなければ、どうしても目先の状況変化に振り回されたり、焦ったりして失敗をしかねないからです。また人材育成に当たっても、リーダーの中に確固たる基準・方針がなければ、本当に必要な人材を確保することは出来ません。

(中略)

環境が変わると主義主張を簡単に変えて行く人がこの世の中には沢山います。そういう人を節操がないというのです。如何なる局面に差し掛かろうと、常時ぶれない考え方を有する人間になることが大事です。

(中略)

己を知り己の人生観を確立せねば節操は身につきません。

(節操がある人、節操がない人)

人は成長するモノなので、その価値観は少しずつ変化してしかるべきだと思います。しかしながら、リーダーとして振る舞うならば、ブレないこと、も重要ですよね。僕自身、どんどん成長して、変化していきたいとは思うのですが「判断基準」は、そろそろしっかりと固めていきたいと思います。

自分で天子になりたい、指導者になりたいと思っても、必ずしもなれるものではありません。そういう真面目な努力を怠って要領よく地位を得ようとしても、絶対に得られるものではないのです。

そうして孟子は次の言葉、「人与うを忘れると、その民を失う。その民を失う者は、その心を失えばなり」と続けています。なぜ民を失うのかと言えば、民の心を失うからです。民の心とは換言すれば、人望ということです。

言うまでもなく、人望の源は人徳です。(中略)仮に人徳の無い人が指導者の地位に就いたとしても、すぐに組織は機能しなくなります。

(人望を得る)

反省しかないです。頑張ります。

才が突出した人間は、組織の中で優れた技量を有した器として貴重な役割を果たします。ただしその人が、組織のリーダーとしてさまざまな器を上手に束ねられるかと言うと、それはまた別の話です。

(中略)

そもそも上に立つものに求められるのは、「才」ではなく「徳」であります。そして「徳」は、誰もが生まれつき身に付けているもので、さらには後天的に高めることが出来るものです。問われるのは、その人が生まれ持って授かった能力がどのようなものかではありません。この世に生を享けた後、その人が自分の意思で如何に己を磨いてきたかということです。

(”Think Big”から始めよう)

ガツン、と来ました。僕は「才」を磨くことに時間を費やしてきました。そして、その「才」を発揮することに喜びを感じています。そして、リーダーには向いていない、と半ば諦めていたんですね。そして、この項の前半を読みながら、やはり僕は「才」で生きるしかないんだなと思っていたのですが、後半になり「自分の意思で如何に己を磨」くかが問われる、というお話になって、考えを改めました。今後は、「徳」を磨いていきたいと思います。

第5章:仕事の極意

大分長くなってしまいましたので、この章からは、ひとつだけ。

かつては働きに出ることを、「奉公に出る」と言いました。これは「公に奉ずる」「公に仕える」という意味です。また働くとは「傍楽」であり、その行いによって「傍を楽にする」こと、つまり社会のために働くことであり、社会に仕えることです。

換言すれば世のため人のためになることが仕事、逆に世のため人のためにならないことは、仕事ではないのです。

(何のために働くのか)

「公益」をもたらす「公器」としての企業に弊社もなっていきたいですし、世間から後ろ指をさされるような事業で「金”だけ”」を稼ぐようなことにはなりたくないなと思います。

このように、どのページにも珠玉の名言が盛りだくさんです。引用しなかった項や、他の章においても、多くの知見がふんだんに盛り込まれていますので、若手経営者は必読だと思います。(尚、読み手によって得られるものが違うと思います。5年前の僕ではきっと受け止められなかっただろうな、と思いますし、5年後に再読すればまた違ったことをかんじるのだろうと思います。)

去欲存理

ちなみに、先ほど述べたように、サイン本を頂戴したのですが、そのサインの横には「去欲存理」という言葉が書かれています。

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去欲存理とは、中国の古い言葉です。コトバンクから、引用します。

(そう)代以後は自然的欲を天理として肯定するとともに、それを超えた過度の欲を人欲として抑制すべきだとする去欲存理説として節欲説は存続した。

出所:コトバンク

本書の中にも、この言葉は出てきます。

人間の本性には「良心…他者と心情的に共感し善へ向かおうとする心理傾向」と「放心…外界の事物に動かされて欲望を追求する心理傾向」の二つの傾向があります。
孟子は「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」(告子章句上の十一)と言い、「仁義の良心を放失するという重大事態を問題にして」おり、孟子的観点から述べますと人間、無心にはなれなくても放心を出来る限り避けるということが大切です。
四字の熟語で言うならば、「去欲存理…欲を捨て去り天理に存す」とか「則天去私…天に則り私を去る」の境地が求められるということだと思います。
前者は「自然的欲を天理として肯定すると共に、それを超えた過度の欲を人欲として抑制すべきだとするもの」、後者は「自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの」であります。
人間はややもすると、その心というものが直ぐに彼方此方に行ってしまいます。時々刻々移ろぐ心を如何にして不動のものとするか、之こそ東洋における長い間の修行の対象でありました。
此の人間社会の中で、中々無心になることは難しいかもしれません。しかし、上記のように「放心しない」で「去欲存理」や「則天去私」の境地に達するべく自分を律して行くことが大事なのだと思います。

「ビジネスマンは無心になれるか」より (※太字は田中が設定しました)

「自然的な欲求には従い、過度の欲求は抑制する。」言葉でいえばシンプルですが、実行するのは本当に難しいです。頂戴した言葉を胸に、今後も頑張って行きたいと思います。(ちなみに、他の2役員の書籍には「有教無類」「敬天愛人」と書かれています。意味は、皆さんご自身で調べてみてください。)

 

自修自得す
自修自得す(北尾吉考|経済社)

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