第三十戦:vs 本阿弥光悦(第23巻より):刀は”触媒”にしかなり得ない|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

追及しているものに、形があるとは限らない

バガボンド(23)(モーニングKC)

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第30回の今回は、刀研ぎの名手 本阿弥光悦との戦い・・・というか、自己の内面に関する問答です。

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刀は「人を斬る道具」

本阿弥光悦は、現代では書道家、陶芸家として有名ですが、本阿弥家は代々刀研ぎを生業としていました。(尚、wikipediaによると、あまり、刀剣にまつわる実績として確たる情報は残っていないようです。)本作品中では、既に、本阿弥光室に家督を譲り、刀研ぎを引退した状態です。時の権力者、徳川家康からの研ぎの依頼も断るという、徹底的な引退っぷりです。

そんな光悦が、明後日に伝七郎との決闘を控えた武蔵に対して「刀をお研ぎしましょう」と申し出ます。

光悦は、武蔵の佩刀を研ぎながら「刀が疲れ果てている」と感じ「これまでに何人斬ったか」と武蔵に問いますが、武蔵は、その数を覚えてはいません。アレですね。パンの枚数的なやつですね。

そんな武蔵をみて、背筋にうすら寒いものを感じながら、光悦は、刀研ぎ師も同類である、と語り始めます。

世間にとっては迷惑な存在でしょうな こんなものを振り回す武芸者とは
その刀を研ぐ私もまた然りか いや それ以上のハタ迷惑
私の研いだ刀によって死んだ御霊はーーーー 百や二百じゃきかんでしょうから・・・

そして、家康の依頼を断っておいて、なぜ、自分の刀を研ぐのか?という武蔵の問いには、こう答えます。

剣をーーー 己の人生の真ん中に置いていると・・・
剣こそすべてと口にされる方はたくさんおられますが
本当の意味で 剣こそ己と生きている人は稀

そういう人は余計な色がつくのを拒む
ただ己の色を深く濃くしていく
その色は美しい その人の色

そして私は やはりそんな美の為にのみ研ぎたいのです

美しいならば 人を切って良いと思っているのも事実

一線を退いた後 刀を研いだのは これで二人目です

本質を突き詰めると、別の何かが見えてしまう

光悦は、武蔵との対話で、刀について以下のように語ります。かなり長いですが、引用します。

研ぎ師として生まれ 刀に囲まれて育ちました
何千という刀を見ーーー それを使う人に触れてきました
その中で 業(わざ)は進んだ
十年 二十年 三十年 五十年 業は進む

もっともっと・・・ もっともっとーーー
この刀から呼び覚ます
鉄(くろがね)の中に眠る 純白を 紺碧を
真夏の蒼穹よりも黒々とした青をーーー

刀を万象と見立て 天地と見立てた・・・
それ自体は悪くない 美しいものはみんなそう ただね・・・
どこまで行っても刀は刀 人を切るためだけに在る刃物
刃物として与えらえた命を全うしてこそ美しいのですな
そこを忘れるとおかしなことになる

刀に囲まれていたからこそ 刀が見えなくなったのか
美という言葉にとらわれたか
研いでも研いでも満足できなくなってしまった

おかしなものです ふふ

私はね 武蔵殿
刀を究極に美しくあらしめるためにはーーー

刀であっては ならないような気がした

この話をきいた武蔵は、強さを求め、柳生の里に向かった己の姿と重ねます。そして、柳生石舟斎の「孫の手」に負かされたことを思い起こします。

刀は刀である必要が無いのか。天下無双という言葉に踊らされ、空回っただけなのか。己の求める強さとは何か。

そういった思いを抱えた武蔵は、光悦に刀を借り、闇夜に向かってそれを振るうのでした。

誰と戦っているのか

刀を借り、素振りをする武蔵の心の中に生じていた感情は、おそらく、迷いではなかったでしょう。ただ、無性に刀を振りたくなったのだと思います。

本阿弥光悦にとっては刀の中にある「美」を磨きだすことが理想でした。武蔵は「最も強い存在」になることが理想でした。光悦が美を求めれば求めるほど、刀という物質は意味を為さなくなっていきました。そして、武蔵は、強さを求めれば求めるほど、戦いが必要なくなっていくことに戸惑いを覚えています。馬鹿正直に、まっすぐに、あるものを究めようとしていったがゆえに、それとはまったく違うものにたどり着いてしまいそうになったわけですね。

その意味で、本阿弥光悦は、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄と同じ存在です。石舟斎や胤栄が「武」から距離を置いたように、光悦は「刀」から距離を置き、美を発露する先を陶芸や書に求めていったのかもしれません。刀を「美の対象」と見ようとも、「武を行使するための道具」と見ようとも、結局は、求めるものを表現するための「触媒」としての役割しか果たせない、ということなのでしょう。

当然ながら、武蔵は、まだ、武から離れるという境地にはたどり着いていません。しかし、天下無双と呼ぶに値する吉岡清十郎を倒し、自身の強さを確認できたからこそ、宍戸梅軒こと辻風黄平の言葉「殺し合いの螺旋から降りる」という言葉を反芻してしまうのでしょう。が、残念ながら、武蔵は吉岡伝七郎との果し合いを明後日に控えています。このまま、武から離れることはできません。殺し合いの螺旋から降りることはできません。その板挟みの状態が、武と自身を同一視する「素振り」という行為だったのではないか、と僕は思います。

素振りによって、己を見つめなおす

僕にとって、プロジェクトは実戦です。負けることは、死を意味します。価値を出さずに終えることはできません。対して、本やブログなどの文章を書く作業は、素振りです。素振りは、己に自信をつけるための作業であり、自分の型を見出すための作業です。この連載に限らず、ブログの更新が滞りがちだったのは、2016年1月、11月、2017年6月と連続して3冊の書籍を執筆していたことが原因ではありますが、それは、自身を鍛える修練の場を、自ら奪っていたと言えるでしょう。(もちろん書籍の執筆は得難い経験ではありますが、修行として考えると ”頻度” が落ちすぎです)

この「勝手に読み解くバガボンド」シリーズは、前回の更新が2016年12月初旬でした。今は2017年9月末ですので、かれこれ10ヶ月ほどの時間が流れたことになります。すみません。素振り、サボってました。はい。

一方、この期間の実戦=プロジェクトは、(ここに詳細は書けませんが)これまで取り組んだことのないタイプのものが多く、過去のプロジェクト経験をベンチマークとして使えない状態で突き進む必要があり、非常に刺激的なものになりました。コンサルティングの常ですが、そういう答えが分からない際に ”道しるべ” となるのは「自分が納得できるレベルのアウトプットを出せているか」ということだけです。なんとか、負けずに乗り越えましたが、戦いに明け暮れた日々、という感覚は否めません。

近づいて、離れて、を繰り返そう

最近、僕は「コンサルタントは、鏡のような存在であるべきだ」という風に思っています。クライアントの悩み事を写し取り、そこから不純物を取り除いて、クリアな形で提示する。謙虚なコンサルティングという名著(そのうち、ギックスの本棚で紹介したいと思います)にもある通り、コンサルタントは、適切な問いを、適切なタイミングで投げかけることが重要です。勝手に「これだろう?」という答えを持って行っても、クライアントの幸せには寄与しません。コンサルティング・プロジェクトで作成する資料(場合によっては仕組みや情報システム)は、あくまでも価値提供の触媒であり、真に創出すべき価値は「顧客の便益最大化」なのです。

コンサルタントとして10年以上、実戦の場で「コンサルティング道」を追求してきた結果、僕は、いわゆるコンサルティング業務から距離のある領域、いわば「ファシリテーション」とか「コーチング」とか、そういう世界に踏み込んできているなと感じます。もちろん石舟斎、胤栄、光悦のレベルには遠く及びませんが、武蔵と同じあたりにはいるんじゃないかな、と思うんですよね。

そして、今の僕は、武蔵と同じく「素振り」をしたい、と思っています。本や時事ネタを仮想的に見立てて、それを「鏡のように写し取る」作業(連載:ギックスの本棚ニュース斜め斬り)に取り組んだり、あるいは、頭の中にある考え方のコツを「形式知として具現化する」作業(連載:”考え方”を考える)に、もっともっと積極的に時間を投下していきたいと思っています。

この素振りによって、僕の頭は整理され、思考は昇華されるでしょう。考え方・思考プロセスが自然なものとして体に染みつき、実戦の場(プロジェクト)に自然体で臨むことができるようになるはずです。武蔵が、素振りを通じて己の身体と対話するように、僕も、自分自身の思考プロセスと対話することで、理(ことわり)に出会えれば良いなと思っています。引き続き、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

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バガボンド(23)(モーニングKC)
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