生産性ではなく、生産量で考えてみる。 ~なぜ、分子を固定したがるのか~|“考え方”を考える

AUTHOR :  田中 耕比古

分子固定で分母減らすの、やめようよ

生産性向上、という錦の御旗を掲げる人や組織を沢山おみかけします。しかし、その議論、ちょっと待って、って思うことが多いんですよね。今日は、そのあたりを考察してみたいと思います。

生産性の公式はシンプル・・・?

生産性は「生産量÷投下コスト(一般的には時間)」で計算されます。”生産効率”ってことですね。この場合、生産量が100で時間が100なら、100÷100で生産性(生産効率)は1。生産量が100で時間が50なら、100÷50で生産性(生産効率)は2。

まぁ、当たり前ですが「生産量が同じなら、投下コストが小さい方がいいよね」ということになります。まぁ、そりゃそうなんですよ。何も間違ってませんよ。

でも、これって、だいぶ片手落ちじゃね?って思うんです。

個人の生産性 と 組織の生産性 は異なる(ことがある)

個人の単位で考えると、生産性は上記公式の通りです。しかし、組織で見るとどうなるでしょう。おそらくは(まぁ、異論があるのも理解しますが)「生産量÷投下コスト(一般的には人数)」になると思うのです。

いや、残業代とかあるからさ、とか、いろいろ諸事情はあるんですが、基本的に10人で100の仕事をやるのと、20人で100の仕事をやるなら、前者の方が生産効率が良いという判断になります。

生産「量」の視点を持った方がよいのではないか。

何が言いたいのか。もちろん、馬車馬のように働け、ってことではありません。ただ「生産性」という言葉で胡麻化されずに「生産量」で勝負した方が健全なんじゃないか、と言いたいだけです。

1時間あたり10の生産をするAさん。8時間労働で80/日。5日間で400/週。4週間で1,600/月。12ヶ月で19,200/年。の生産です。対して、1時間あたり8の生産をするBさんが、10時間労働で80/日だとします。これも、19,200/年で同じです。この二人は「同じ価値を生んでいる」と言えます。

その場合、生産性が高いAさんの方が偉い、というのは違和感がありませんか? 同じでしょ。二人の提供価値。

あるいは、超優秀だが労働時間を短くしているXさんがいるとします。1時間に30生産しますが、週に2日、6時間ずつしか働きません。30x6hx2日=360/週です。この人、めちゃめちゃ生産性高いですよね。でも、1週間で、先ほどのAさん・Bさんよりも少ない生産しかしていません。これも「生産性の高いXさんの方が偉いの?」という疑問がわきます。

生産量は絶対指標。

結局のところ、なんだかんだといっても「生産量」で測るしかないと思うんですよ。これは、個人の幸せとかなんとかいう話じゃなくて「創出した価値」の総量が(ビジネスにおいては)大事だ、という話です。

新聞や雑誌、あるいはweb上でいろいろな意見が見られますが、生産”性”の高低の話に終始することが多く、生産”量”の多寡に触れているケースが少ないように思うのです。(そんなことないですか?)「1時間あたりの生産量=生産性」が、10なのか30なのかで議論するのも結構ですが、その結果、1日あたりあるいは1ヶ月、1年でいくら生産したのかという「総生産量」に目を向けましょうよ。

また、分子である「総生産量」を固定して、分母である「労働時間」を減らすことで生産性を上げる、という考え方にも違和感があります。場合によっては、「総生産量が多少下がったとしても、生産性を上げなさい」という風に読める主張もあります。まぢか。と。

繰り返しになりますが、「分子=総生産量を増やす」ことを第一義におくべきだと僕は思います。勿論、その際に「分母=労働時間を増えさない or 可能ならば減らす」のがベストなのは言うまでもありません。しかし、分母を減らす方が主軸になるのは(ブラック企業とかそういう特殊な事情を抜きにすれば)違和感を感じちゃうのです。

僕たちは、何かしらの価値を創出することで、世の中に貢献し、その対価としてお金を得ています。その前提に立ち返ると「いかに多く生産するか」と「それに対して正当な対価を得るか」という部分に焦点をあてるべきだと思います。その「いかに多く」という部分に対して「いかに効率的に」という視点で改善していくことは素晴らしいことですが、決して、「効率的に生産するか」だけを追求することにはなりません。(生産量の減少に伴って対価が減っても良い、ということであれば、それは否定しません。)

成長(個人であれ、企業であれ、国家であれ)を志向するのであれば、曖昧な表現である生産”性”の議論にとらわれず、絶対指標である生産”量”にまず目を向けるべきだと、皆さんも思いませんか?

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