第三十一戦:vs 理<り> (第24巻より):真理の探究とは、対話することである|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

己と、対話せよ

バガボンド(24)(モーニングKC)

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第31回の今回は、「理(り)」即ち、己の中に存在する「剣術の真理」および、それを体現した存在である佐々木小次郎との戦いです。

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理(り)=ことわり

この連載は、普段は”あらすじ”の解説から入るのですが、今回はタイトルに使った「理」という言葉についての説明から始めます。

理は、本書内では「り」とフリガナが打たれます(24巻収録:#208「邂逅」の19ページ目)が、「ことわり」と読まれることもあります。真理(しんり)という言葉は皆さんご存知かと思いますが、ざっくりいうと、それと大体同じだとご理解いただけばよいと思います。理という文字は、論理や合理、理屈などという言葉にも使われていますね。物事の成り立ちとか、仕組み・構造みたいなものを表します。

今回、武蔵が出会うのは「剣術の理」です。

小次郎によって、理を思い出す。

武蔵は夢を見ます。武蔵が子供だった頃の夢です。そこでは、刀を抱えた武芸者の死体を見つけた武蔵が、その刀を借りて、振り回しています。

重い刀を、力を入れて振り回すと手が痛くなります。しかし、自分の腕に、力を込めて打ち下ろしても、せいぜい皮膚が切れる程度の切れ味しか発揮できません。ところが、身体の力を抜き、刀の”重さ”に任せてその刃を腕に落とすと、刀は肉を割きます。

山の中で、自然に身をゆだね、そして、刀の声に耳をすませば「どう振るか どう斬るかなんて 刀が教えてくれる」のです。

その夢から目覚めた武蔵は、佐々木小次郎と出会います。小次郎は、細い木の枝を振るって、雪だるまを両断しようとしています。普通は、細い枝を振るっても、そうはいきません。雪だるまに跳ね返されて終わります。事実、武蔵が挑戦しても跳ね返されます。

細枝を振るう小次郎を見て、武蔵は夢のことを思い出します。武蔵の目には、小次郎の手にある枝は、まるで重い鉄の棒のような「重量あるもの」に見えます。さらに、その枝が、自らの意思で「こっちへ行きたい」と小次郎に語りかけていて、小次郎はその声に応えて動いている、というふうに映ります。

夢に出てきた子供時代の自分と、目の前にいる小次郎。二人の姿が重なります。そして、武蔵は気づきます。少年時代の自分は、目の前の小次郎のように「理」に会い、それに従って剣を振るっていたのだと。今の自分は「我」に囚われて、理を見失っていたのだと。

武蔵は、自身も軽い細枝を手に取り、その「微かな重量」を指先で感じ、そしてその声に耳を傾けて、理(り)に適(かな)った剣術を練習し始めるのでした。

佐々木小次郎という「剣術の理」

武蔵は、小次郎を「理の中にいる」と評します。むしろ、小次郎が「理」そのものであるかのように錯覚する(=夢の続きだと誤認しそうになる)くらいです。

小次郎は、どうしてそこまで「理」と向き合うことができたのでしょうか。それは、小次郎の耳が先天的に聞こえないことに起因します。耳が聞こえないがゆえに、己の体(もしくは、それを通じて”刀”)と対話し続けていました。その対話相手こそが「理」なのです。

※小次郎が自らの身体と語り合うというエピソードは、本連載の読み解き対象外(武蔵が出てこないため)である「小次郎編」で紹介されています。具体的には20巻収録の#173「斬り合いたい」で落ち武者の市三と戦うシーンや、#178「巨雲と小次郎2」で同じく落ち武者の巨雲(こうん)と戦うシーンをご参照ください。該当箇所を抜粋して引用します。

体の大きい小さいじゃない 剣には力もいらない 斬ろうとしてもいけない
ああもう まだ言葉で考えてる
もどかしい 思考を捨てたい
鳥は飛ぼうと思って飛ばないーーー なんてやめろ また言葉遊びは
せっかくの静けさが

笑ってる

ああそうか
君はもともと この世界の住人

(#173「斬り合いたい」内 市三の思考より)

その若さにして これほどの技の境地!!

なるほど うまれたときから耳が聞こえないのだとしたらーーー
己の体と語り合う時間は 腐るほどあったというわけか

(#178「巨雲と小次郎2」内 巨雲のセリフより)

このように、自らの体と長年に渡って語り合い続けた小次郎は、まさに「剣の理」そのものと言って良いでしょう。

以前あったときは、二匹の獣だった

ちなみに、武蔵と小次郎は18巻で出会っています。関ヶ原の戦の後、死体がゴロゴロしている戦場跡で、落ち武者達と戦っているときのことでした。この時、小次郎の兄弟子(であり、天下の剣豪である)伊藤一刀斎は、二人を「獣」と評します。しかし、その戦い方は大きく異なります。

刀を自在に操り、甲冑の隙間を狙って的確に相手を仕留めていく小次郎。一方の武蔵は、力任せに刀(もしくは槍)を振り回して、なぎ倒し、首の骨をへし折っていきます。二人の特性を端的に表したシーンですね。(でも、時系列が狂うので、しれっと読み解き対象外です。)

この時のことを覚えていたのか、雪だるまを切りつける小次郎を見た武蔵は「どっかでみたよーな・・・気のせいか」と思い出したりもしています。武蔵と小次郎という、後に巌流島で決闘する二人が、ここで出会っているということは、物語上非常に重要なことのような気もしますが、本連載「勝手に読み解くバガボンド」の趣旨はバガボンドのストーリーを追うことではありませんので、一旦、目をつぶって華麗にスルーしたいと思います。

コンサルティングにおける「理」とは?

先日ご紹介した書籍「日本の身体」の書評でも触れましたが、身体運用とは「自身の体の動きを知ること」から始まります。自分が、どのように動いているのかを把握し、それに修正をかけていく。

これを、自分一人でやるのは大変です。そこで、師匠あるいは指導者だったり、筋トレであればパーソナルトレーナーがいて、支援してもらうというのが普通です。

もうお気づきのことと思いますが、仕事であっても同じことです。先輩社員、チューター、あるいは上司が先生となって、手本を見せてくれます。そして、何か違う部分があれば、その補正作業を手伝ってくれます。

しかし、この恵まれた環境に甘えていては「理」に出会うことは難しいでしょう。

理は、歩いてこない。だから歩いていくんだよ。

そもそも、コンサルティングにおける「理」とは何でしょうか。僕は「”論理”と”合理”の意思を尊重すること」だと思っています。

武蔵(あるいは小次郎)が、自らは脱力し、刀を主・自らを従と置いて、刀が命じるがままに体を動かすような状態を「剣術の理」と呼ぶのであれば、コンサルタントの武器である「論理的思考」「合理的判断力」を刀と見立て、その命ずるがままに議論を展開することこそが「コンサルの理」ではないでしょうか。

自身を”器”と見做し、クライアントの思いや意向と、ファクト即ち客観的な事実を全て受け容れて、「論理」と「合理」という武器の命じるがままに、それらを斬る。これが、僕の思う「再現性のあるコンサルティング」です。

コンサルタントが答え=”正解” を持っていくということに対して、僕は極めて懐疑的です。もちろん、主観的な意見も、クライアントに求められれば述べますが、それが”正解”であるという確証をもって述べることは稀です。僕が求められてもいない「意見と思しき何か」を述べるときは、十中八九「相手の真意を確かめるため」か「他のアイデアが埋もれていないか切り口を変えてチェックするため」です。僕の意見が通るかどうかについては、ぶっちゃけどうでもよいと思っています。

とにかく、しっかりとインプットを集め、それらを「論理的に整理し」、「合理的に判断する」ことを繰り返すだけです。

天は自ら助くる者を助く

これが万人(もしくは、すべてのコンサルタント)に適応可能な「理」であるかどうかは分かりません。しかし、少なくとも僕にとっての「コンサルの理」である、この考え方を身に着けるに至ったのは、僕が、自ら理を探しに行ったからでした。

少年時代の武蔵は、山の中を走りながら、こう言います。

師などいらん
この山のすべてのものに 目を開き
すべての音に 耳を澄ます
鼻を 口を 皮膚(はだ)を

俺と山は ひとつになる

心の中も 山になる
そうしたらーーー

(中略)

師などいらん
どう振るか どう斬るかなんて
刀が教えてくれる

そうなんですよね。上司や先輩が教えてくれるのは、あくまでも「型」です。「理」ではありません。

守破離という言葉がありますが、「型」を守るところまでが、上司・先輩のカバー範囲です。その後の、「型」を破る、そして「型」を離れて新しい自分なりの型を作るという部分は、自分なりのやり方で進んでいくしかありません。(なお、型も守れないやつが、型破りをするのは無謀です。物事には順序があるんです。)

特に、この型を離れる=”離”のタイミングでは、物事の本質を理解することが求められます。既に存在する「型」とは別の「型」をつくるに際して、元の「型」を全否定するのは現実的ではありません。だって、全否定されるほど明らかに間違っているものは、歴史の中で淘汰されて「型」として残っているはずがないんですから。

そうすると「8割くらいは普遍的に正しいことを言っている型」の「普遍的に正しい部分」を抽出して踏襲しながら、新しい要素を追加し、新たな「型」として再構築していくことになります。この「普遍的に正しい部分」こそが、「理」に相当するものだと思います。

これを、自ら求めて、探し当てるのは、並大抵のことではないでしょう。そして、万人にできることではないのかもしれません。型を作るということは、流派を作るということです。つまり、「理」を見出して、それにアレンジを加えて「型」として昇華させた人は、新たな流派の開祖となるわけです。そりゃ、並大抵の苦労ではないですし、誰かに与えてもらえるものではないですよね。

誰かに与えてもらえるのは「免許皆伝」です。決して、「開祖の称号」ではないのです。

武蔵のように、我執に囚われた己に気づき、その拘束から己を解き放つことができれば、「理」と共に、真のコンサルタント(もしくは、プロフェッショナル・ビジネスマン)を目指すスタートラインに立ったことを意味するのです。

まだまだ道のりは長いですが、千里の道も一歩からと言いますしね。いつか、田中流コンサルタンティングの開祖となる日を夢見て、僕も頑張りたいと思います。(尚、僕は、現在はGCA株式会社 金巻龍一マネージングディレクターが率いる 金巻流コンサルティングの末席を汚す門下生です。師範代ですらないのか…遠いなぁ…開祖…。そういえば、佐々木小次郎の師(=伊藤一刀斎の師でもある人)は、鐘捲自斎(かねまきじさい)なんだよな。名字的に因果を感じちゃうなぁ…)

 

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