第三十七戦:vs 我執:他人と比べるな、己を磨け|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

競うべきは他の誰でもない、自分自身。

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。今回は、前回(第三十六戦:vs右足の大怪我)と時間軸は重なりますが、武蔵の「我執」にスポットライトを当てて読み解いていきたいと思います。

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我執を客観視する

医者に「光無き地獄の行き止まりに向かうあんた」という表現をされた武蔵は、

フン 行ったことあんのかよ?

と嘯きます。

沢庵に、江戸にいき、将軍家指南役 柳生宗矩 の下で世間を学び、どこかの藩の指南役として召し抱えられるための準備をしてみてはどうか、という提案に対しては

柳生宗矩
俺とあんたとどっちが強い?

という我執が首をもたげます。

しかし、武蔵は、以前の武蔵とは違います。そういう「我執」を「我執」と捉えて、冷静に見つめることができます。

こういう気持ちが 我執だとして
まだ その火は消えていない

だが こうして眺められるほど
切り離されてきた 冷静だ

そして、そんな自分を見つめつつ、沢庵に問います。

……これで いいのか……?
成長したのか?
満足しちまったのか?

沢庵は応えます。

成長したんだ

刀は鞘に納めるもの
どんなに切れる刀も 鞘がなくては 剥き出しのままでは
出会う者みな 敵になる
納めるところがなくては いつか必ず 己自身を 傷つける

沢庵はさらに続けます。

たとえ どんな人であれ 人の命を絶ってよいはずがないと
分かっていたに違いない お前の芯のところは

この言葉に反応し、武蔵の我執が囁きます。吉岡伝七郎を屠ったとき、植田良平の死骸を見下ろした時、宍戸梅軒(辻風黄平)を倒した時のことを思い出し、武蔵は腹を抱えてうずくまりながら、その声を聴きます。

勝ったのは 俺だろ?

武蔵は、腹に鉛を抱えている、と感じます。そして、自分に倒されたものたちは、戦いの螺旋を降り、自分はまだ、その螺旋の中にいると感じます。

あいつらは赦され 俺にとってだけ続いている

武蔵は、沢庵に「勝ったのはどっちだ」と問います。沢庵は「勝ったものはいない」と答えます。また、そのことを「お前の芯はわかっている」と続けます。

そして沢庵は、自分自身の我執について語りはじめます。

人間の何たるか 人はなぜ生まれ
如何に生きるべきか 救いはあるのか
分からなくて 混沌の闇の中で
苦しみ のたうち 間違いを犯し
(中略)
わしの中にも我執ーーー それはあって
それが頭をもたげる時 わしの歩んできた道は無意味に思え
あほらしく見えて

実は最近 声を聞いた

それによるとーーー
わしの お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて
それが故にーーー 完全に自由だ

この世に一人も お前の苦しみを理解できるものはおらん
ただ 武蔵よ 分かるかい?

それでも 天は お前とつながってる

ここから 星は見えないが
心に 天を抱いて 祈ろう……

心の「芯」と「天」

武蔵は、この沢庵の言葉に対して、自身の言葉で答えます。

自分でも驚くほどの太刀筋がーーー
強くて 速い 剣使いが できることがある

そんなときは……

俺の体の…… 真ん中の奥が光ってる

そんなとき なぜか…… 笑いがこみあげてきて……
祈りたくなる

その光のことを あんたは「心に抱く天」と呼ぶんだろう?

「俺は天とつながっているーーー」 分かるような気がする
天と しっかりつながるほど 剣は…… そうか

自由で 無限だ

武蔵は自分の「芯」を意識し、その芯が「天」とつながっている、と感じます。

その夜、一人でろうそくの明かりを見つめながら、天下無双について考えます。父 新免無二斎、柳生石舟斎、柳生宗矩、宝蔵院胤栄、胤舜、そして、佐々木小次郎。自分が天下無双であるならば、彼らもまた、天下無双ではないのか。

天下無双とは何か。柳生石舟斎に言われた言葉が頭をよぎります。「天下無双とは、ただの言葉じゃ」。

夜が明け(武蔵の回復具合から、劇中では数日が経過している可能性はあります)、京都所司代 板倉勝重が武蔵の下を訪れます。板倉は、武蔵が大怪我をしてるなか、吉岡一門の縁者や武芸者から襲撃されることを危惧して、牢に入れることで保護することに決めた人ですので、心情的には、武蔵の味方だといえます。

その板倉に「天下無双とは何か」と聞かれた武蔵は、こう答えます。

……言葉です
ただの言葉ーーー

しかし、吉岡一門を全滅させるほどの実力の持ち主です。自分を天下無双と言っても間違いではないのでは?と板倉が考えるのも当然です。が、武蔵は認めません。

陽炎のように…… 近づいたら 消えてなくなりました

言いかえれば つい最近まで
そのことすらわからないほど 遠くに
はるか遠いところにいた ということです。

武蔵は、宍戸梅軒(=辻風黄平)と戦ったときに、既に、違和感を感じていたと語りはじめます。

勝ったはずーーー なのに 天下無双が遠ざかるような

天下無双と名づけた 陽炎ーーー
ただそれだけのことに気づくのに 二十二年の年月を費やしました

翌日、再度武蔵の下を訪れた板倉は、武蔵に「昨日、引け目を感じた」と告白します。

引け目それ自体は 心に生じた小さな波にすぎぬ
不安の方へ振れれば 心は閉じる (中略)
不安は やすやすと 恐怖にかわり 敵意へと育つ

その逆もまた厄介だ 崇拝する 同化したがる
寄りかかって 執着の出来上がり

(中略)

真ん中が いちばんいい

そして、自分が吉岡拳法と幼馴染であり、吉岡清十郎・伝七郎を我が子のようにかわいがっていたことを伝えたうえで、武蔵に非はないと述べ、こう続けます。

例えば すべての人が おぬしのように強くあれたら
こうして 誰かと対峙したとき
それぞれが 心を揺らすことなく 真ん中であれたら
闘いは起こらない
闘う必要がない
そう思わんか

(中略)

それともーーー
そこへ至るために闘いが必要なのか?
その強さは やはり 斬り合わねば 得られぬのか?

この先も わしらはーーー わしらの子は 孫たちは
戦い続けるのかのう

この「そこへ至るために闘いが必要なのか?その強さは やはり 斬り合わねば 得られぬのか?」という板倉の言葉は、極めて本質をついています。

(この読み解きの本来の目的である)戦略コンサルタントの視点で、現代のビジネス環境に紐づけると、これは「経営のビジョン」と「売上・利益の拡大」の話に似ています。

事業拡大の意味とは何か

会社を興す、事業を興す。そういう時に、多くの人は「何らかの課題解決」という目的をもっています。もう少し高尚に言い換えれば「世の中を変えたい」「人を幸せにしたい」というようなことが、起業の目的となるわけです。(もちろん、例外もいますけどね。また、それが悪いとも思いませんよ。)

しかし、事業を継続していくためには、売上・利益が求められます。場合によっては、株主(ファンドに限らず)・メインバンクなどからの突き上げもあるでしょう。資本主義社会において、お金を稼ぐということから逃れるのは、一般的には不可能です。やりたいこと、かなえたいビジョンがあるなら、まずは金を稼いで事業を運営しなはれ、ということになります。

そこで、大きな問題に直面します。自分が目指しているのは、世の中の誰かを幸せにすることだったはずなのに、まず、目の前で、利益を生み出すことに注力せざるを得ない、という「現実」と向き合う必要があるわけです。

結果、起業家は経営者になります。銀行にいき、経営計画を説明して、お金を借ります。投資家を説得するための資料を作り、出資をお願いします。そして、売上を作るために営業活動を行い、人を雇って規模の拡大を図ります。単一事業で爆発的に規模が拡大することは稀です。規模の拡大のために「シナジー」という言葉で色付けして、事業の多角化に乗り出します。

あるいは、本業と信じていたもの、ビジョン実現に直結するものに充てるべきリソースを、他の稼げる事業に振り向けます。めちゃめちゃ具体的な例でいえば「イケてるアプリを作ろうと思ったけど、稼ぐために始めた受託開発が忙しくて、アプリ作ってる暇がありません(でも、食えてます)」みたいなやつです。

こういう会社はたくさんあります。これは「金を稼ぐという事業運営のための手段」が「掲げたビジョンの実現という目的」に成り代わった、状態です。

ここで、先ほどの武蔵の話とつながります。武蔵は、天下無双というビジョンを志しました。それは、勝って勝って勝ちまくることによって達成されると武蔵は考えていましたが、多くの勝利を積み重ねた結果、戦う意味があるのかどうかさえ見えなくなりました。

勝利を積み重ねることは、事業拡大と似ています。競合に勝った結果、市場シェアが増えます。売上が伸び、さらに人を雇って拡大し、より多くの利益を創出していきます。しかしながら、それを延々とつづけることに、どれほどの意味があるのでしょう。殺し合いの螺旋ならぬ、事業拡大の螺旋です。

マイクロソフトのビルゲイツ氏は(節税目的とかいう話はさておいて)慈善目的の財団をつくりました。和民創業者の渡邉美樹氏や、タリーズ創業者の松田公太氏は、国会議員となって世のため人の為に尽くすことを志しました(名誉欲だとかなんとかいうのも別の話です)。もちろん、僕は、ここで挙げたお三方とお話したこともないので、批判や悪口を言うつもりはありません。ただ、全くの部外者・外から眺めている僕としては「それって、逃げちゃってません?」という気持ちがあります。

僕が思う理想の経営者は「掲げたビジョンの実現に直結する”本業”によって、世界を変える」ことに邁進する人です。己の事業が世界を変えるための役に立っているならば、政治や慈善事業に手を出す必要はありません(経営者として、ではなく、人間として、という話をするならば、寄付等の行為は尊いですよ。もちろん。)。つまり、本業で勝負しようぜ。です。

そういう意味では、amazonのジェフ・ベゾス氏は、全ての利益を新たな事業に投資しているわけ(まぁ、先日、稼ぎ過ぎたせいで、さすがに投資しきれなくて利益が出ちゃった、みたいな話はありましたが)で、一つの理想の形と言えるかもしれません。当たり前ですが、その事業投資が「ビジョン実現のための本業」と呼べるものであれば、ですけれども。(有価証券やビットコインを買ってるような会社さんもいますかならね・・・)

武蔵と同様に、僕たちも「成長の限界」に気づく日が来ます。「戦いの無意味さ」に気づく日が来ます。しかし、そうなる前に「戦わなくて良い」と気づけないか、というのが、京都所司代 板倉勝重の

そこへ至るために闘いが必要なのか?
その強さは やはり 斬り合わねば 得られぬのか?

なわけです。

事業運営においても、日々の戦いを積み重ねて相手を切り倒していくなかで、成長が止まるレベルまで(もしくは、成長の無意味さに気づいてしまうくらいまで)到達することになる必要があるのでしょうか。そうなる前に、目指していたビジョンを実現するために、最適な方向を向けないものなのでしょうか

平穏か 剣か

沢庵和尚と、板倉の話を受け、武蔵の心は「仕官」を選択肢として理解します。求めてくれる藩があれば、そこに仕官し、おつうと共に安寧な暮らしを得るわけですね。それは、武蔵が求めていた「剣」を捨てることにはなりますが、「剣」の追求から得た強さの伝承にはつながります。

もちろん、それに納得できるわけではありませんが、少なくとも、一つの選択肢・可能性として捉えたはずです。

が、吉岡の残党である太田黒(吉岡十剣のひとりで、折れた腕を差し出して、人を斬る練習だと伝七郎に一刀両断に切り落とされた人物)が、武蔵の囚われている屋敷に現れ、武蔵を自分の手で処刑させろと騒いだという事実を訊き、剣を捨てるという選択肢を捨てます。

沢庵坊 できるはずがねえ もう遅い
(中略)
帰る場所は 俺の帰る場所は ずっとあそこにあった

あの場所に あのときの心持ちに
帰りたい
体も 心も 真ん中
緩みもなく 力みもなく ただ
ひとつの体が 無数のあらゆるもののうちの ひとつの粒で
無数のあらゆるすべてと ひとつながりでーーーー

武蔵は、「おっさん穴」のことを思い出します。子供のころ、「理(ことわり)」と出会っていたころを。

剣と向き合い、剣を振るう自分自身の体と向き合うこと。それが、幸せだと感じていたころを。

そして、武蔵は、重症の体であるが故に、板倉によって牢内に囚われているのではなく、むしろ保護されていることを理解しつつ、その手を離れることを決めます。

それは、仕官の道を捨て、おつうと生活するという選択肢を捨て、大怪我した右足を抱えたまま、剣の道に戻るということを意味しています。

つかめそうだった つかみかけたままだ
ここまできて この足がーーー くそ
あの感覚が消えないうちに進むんだ

剣の道にまい進することを決めた武蔵は、過去に戦い、技を競い合った者たちのことを思い出します。

競う相手がいた
己のすべてを ぶつけさせてくれる 相手がいた
だから ここまで来れた

俺は ひとり ではなかった

陽炎を追うのでなく 技の極みを
その極みのほかは 何も望まない

天の神サンよ
命を投げ出し ぶつけるしかない相手を
もう一度 命のやりとりを

もう一度だけ 俺にくれ

こうして武蔵は、傷ついた体を杖に預けながら、京を離れます。

吉岡一門は壊滅状態ですので、その追手が来る可能性は低いものの、「吉岡を倒した天下無双 宮本武蔵」を討ち取って名を挙げたい武芸者(つまり、昔の武蔵と同じ状態の浪人たち)が、日々、武蔵の命を狙いに来るのは想像に難くありません。

しかし、そういう暮らしの中に身を置き、降りかかる火の粉を時に避け、時に払いつつ進む中で、陽炎=天下無双を追うのではなく、剣の極み、すなわち、剣の理(ことわり)を探究すると心に決めたわけです。

己の我欲、我執によって、多くの命を奪ってきたことを省み、その上で、だからこそ、今の景色が見えていることを理解した武蔵は、自分だけが都合よく引退して余生を過ごすなどという選択肢を選べなかった。

ただ、今までと違うのは「我執から放たれる」と決めたことです。

これまでは、戦いの場において、我執を忘れ、理(ことわり)に身を任せるということはありました。しかし、それは、あくまでも眼前の戦いに勝利するためです。今回の我執からの解放は、それとは異なります。

剣を振るうことが難しいほどの大きな怪我を負い、剣を捨てることを周囲の全員から進言された武蔵を、それでもなお剣の道に突き動かすのは、いったいなんなのでしょうか。

僕は、小次郎という存在が大きいのだと思います。小次郎、すなわち、剣の理(ことわり)を体現している存在と出会ったことが、武蔵を「天下無双という陽炎」から解き放ち、「俺の方が強いという我執」から解き放ったのです。理(ことわり)を自らも体現したい。

そして、理(ことわり)を体現した者同士で、”強さ”を競うのではなく、”剣技の限りを尽くす”ことを望んだのですね。命のやり取りであることは、その必要条件に過ぎません。武蔵の歩む剣の道は、命を失っても仕方のないものであり、むしろ、命を失うことによって完成するとさえ、言えるのでしょう。

武蔵が「天」と己が同一であると、真の意味で実感するのは、理(ことわり)を体現し、その理(ことわり)に身を委ね、その命を失った時なのかもしれません。

成長とは何か

僕もまだまだ、道半ばです。優秀な経営者や事業家、また、優秀なコンサルタントなどとお会いするたびに「素晴らしいな」と思います(前掲のビルゲイツ氏、渡邊氏、松田氏も、実際にお会いすると、おそらく極めて素晴らしい方々なのだと思います)。

そういう人達とお会いするたびに「そこから見える景色は、どんな感じですか」という気持ちが、うずいていました。まさに、板倉のいう「引け目」や「崇拝」の感情だったのだと思います。京都所司代、偉い地位にいるのは、伊達じゃないですね。板倉さん。すごいよ。

さて、みなさんお気づきでしょうか。そうです、過去形なんです。そうなんですよ。

というのも、数年前から、引け目や崇拝を殆ど感じなくなってきたんですね。分を知る、わきまえるという感じでしょうか。もちろん、まだまだ未熟ですし、自分なりに己を高めていく必要はあると思っていますが、それでも「引け目を感じたり、崇拝したりはしない」というくらいの心持ちにはなれた気がしています。

これが、武蔵ほどの斬り合いをする前に気づけたのか、武蔵のように多くの斬り合いをして屍の山を築いてきた結果なのかについては、もはや主観的になりすぎてまったく判断がつきませんので、友人たちの判断にゆだねるものとしましょう。ただ、何とか「無益な争いには意味がない」というところまではたどり着けたんじゃないかと思うわけです。(ま、もう40歳なんで、別に早くもないんですけども。)

この連載の最初(目次記事)に「武蔵が、吉岡清十郎・伝七郎兄弟を倒す為に修行するのと同様、僕も修行して、天下無双を目指すんだ」と書いていたのを思い出すと、隔世の感がありますね。武蔵と共に、少しは大人になれたってことかもしれません。ありがたいことです。ここから先の人生は、他人と比べるのではなく、自分自身を最大限に高めるために時間とリソースを使いたいなと思う次第です。

まずは、僕の探す「理(ことわり)」が何なのかを考えるところからでしょうか。つまり「佐々木小次郎を探す」ところから始めるってことでしょうね。頑張ります。

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